悠久の大自然に包み込まれたボルネオ島、サラワク州。地元の人々は「サラワッ」と呼ぶ。「k」はほとんど無声音なのです。そのサラワッに、もう30年以上住んでいる「サラワクの母」と呼ばれる女性がいるという。「『サラワッの母』の間違いじゃないの?」という素直な疑問もあるが、日本人にはやはり「サラワク」が分りやすい。「バングサ」が正解か?「バンサ」が正解か?という論争もあるが、「ほとんど日本人しか読まない『日馬プレス』なんだから、紙面ではバングサにしよう」と決めている。それと同じだ。「間違いだ」という抗議はお断りしたい。
「いつ?誰が?どういう理由で?『サラワクの母』と呼ばれるようになったかは分らない」という。世話好きで、他人から何かを頼まれたら「ノー」ということができない性格で、サラワクで困ったことがあると酒井さんに相談すれば何とかしてくれるというイメージが、いつの間にか『サラワクの母』に変わっていったのだろう。
『サラワクの母』こと酒井和江さんは丸くて、明るくて、心の温もりが伝わってくる、年齢を感じさせない生き生きとした「太陽(マレー語でマタハリ)のような魅力あふれる女性だ。
サラワク州には200人前後の日本人が在住している。州都クチンには約100名。太陽誘電などの工場に駐在している人たちも多い。たった100人しか日本人がいないのに、日本食レストランが5,6軒ある。ここでも世界一の長寿民族の日本人が口にする料理への関心が高まっているのだろう。それなのに、『サラワクの母』はクチンきっての老舗日本食レストランで知られた『ききょう亭』を閉じた。その謎は怖くて聞くことができなかった。
酒井さんは四国徳島県の瀬戸町大島田出身。渦潮で有名な鳴門海峡の漁師だったお父さんと法制工場で働いていたお母さんの間に生まれた。徳島文理大学の短大時代も島から通った。自動的に門限は最終便がでる午後9時までに埠頭にたどりつかなければならなかった。箱入り娘の島娘だった。
『サラワクの母』であり、実際に一男二女と一養女の4人の子供の母なのに子供たちの父はいない。もちろんマリア様ではないのだから、21年前に結婚した。短大の学園祭でビラ配りをしていた外国人に目が引かれた。香川県にあった四国研修センターで自動車修理の研修で留学中だった男性と学園祭で知り合い、あの時代らしく、文通して愛をはぐくんだ。初デートは高松駅前の(今はない)花時計の前だった。酒井さんは色浅黒く男性的で、彫りが深くてハンサムだった男性の虜(とりこ)になった。このときに酒井さんはマレーシアという国についての知識がほとんどなかった。まして、サラワク州に関する資料などほとんどない時代だった。日本では、サラワクの山奥には超能力を持ったイバン族の仙人がいて、傍若無人にふるまう州政府の官僚を魔術を駆使して退治するという西村寿行の小説が唯一の情報源だった。
お父さんが激怒。お母さんは涙。涙。
彼の帰国が迫り、デートに明け暮れしていた酒井さんにお父さんがいぶかしく思い、「付き合っている男がいるな。連れてこい」と言われて、家に連れてくると、彼が帰ったあとで「ドアホ!」と怒鳴られ、「あんな男と結婚するなら、親子の縁を切る。二度とこの家の敷居をまたぐことは許さない」と叫んだ。
そんな時代のサラワクだから、漁師一筋、頑固一徹のお父さんが怒るのは無理もない。それなのに、「この人が好き」というだけの理由でやってきた。でも、幸運にも、その時期に両親に大好きな男性との恋愛を反対された女性が自殺した事件があり、お母さんが「娘も自殺でもされてはたまらん」とサラワクまで送ってきてくれた。お父さんは沈黙したきり。お母さんは泣き泣き結婚を認めざるを得なかった。というわけで、『サラワクの母』の前身は一途な愛に生きる『瀬戸の花嫁』だったことが判明した。
『瀬戸の花嫁』と聞いて。この歌を歌っていた当時の小柳るみ子の可憐な雰囲気を連想しないほうがいいだろう。将来、『サラワクの母』と呼ばれるにふさわしいたくましさや包容力があったはずだ。もちろん、愛に生きるひたむきな女心はすばらしいが…
『瀬戸の花嫁』はサラワク州ミリにやってきた。「ミリの花嫁」となった。「ミリの花嫁」となった酒井さんは大歓迎された。しかし、夫の父親の住むシェル石油の社宅は瀬戸の漁師の家よりは立派だったが、社宅を出るとそこは貧しい人たちが住む木でできた高床式の家が点々とするマレーのカンポンだった。お母さんには「大事な娘をサラワクの原住民に奪われた」と泣いていた。
そのお母さんが日本に帰ると、どっぷりとマレーの文化が待っていた。夫の両親などから「マレーの女になったんだからマレーの民族衣装を身につけるよう」にと強要された。アイビールックやミニスカートといった都会の流行に敏感だった日本の島娘は、心ならずもマレー人女性の民族衣装のバジュ・クロンで毎日を過ごすようになった。ポジティブ思考で、日本語とはいっても阿波弁が得意なだけで、英語もいい加減だった酒井さんはほとんどマレー語しか通じない世界では、さすがに「マレー語の勉強をしなくては」と思い立って勉強をはじめた。
カルチャーショックを克服できたのはマレー語が何とか分るようになって、逆に自分は日本人だというアイデンティティーが目覚めたことと、田舎育ちのお陰で「嫁に行ったら嫁に行った先の生活習慣に従うのが当然」という意識だったからだろう。家には夫の両親と8人の兄弟姉妹とその家族合わせて23人が一緒に住んでいた。あわただしく過ごす中、酒井さんは長女の愛沙(あいさ)さんを産んだ。「二度と帰ってくるな」と宣告された実家に帰りたい。故郷の島、海を見たいという思いが募った。愛沙という名は沙羅越(=サラワク)を愛するという意味の名だ。
幸か不幸か島田島のお祖母ちゃんの病状が悪化した。酒井さんは愛沙ちゃんをつれて1年半ぶりに帰郷した。お父さんは初孫を抱いて心の底からうれしそうだったが、実の娘を許してはくれなかった。酒井さん母娘がミリに戻った二週間後、お祖母ちゃんは息を引き取った。それを知らされたのは1ヵ月後、「すぐに帰りたくても、帰れない」と悩ませ苦しませたくないと気遣った家族が連絡を遅らせたのだという。
マレー人ビジネスマンの夫の事業はことごとく失敗
家族23人での大家族生活を4年で卒業し、夫は中古車と中古部品販売の会社をはじめた。酒井さんの名前が入った『シャリカット・カズ・トレーディング』という名の会社だった。他人を疑うことを知らない坊ちゃん育ちの夫は、せっかく日本から輸入した部品を納品してもお金を払ってもらえないなど、したたかな華人ビジネスマンにいいように翻弄され、事業は失敗した。
失望した酒井さんは徳島に帰ろうかと思った。帰れば、みんな表向きは「よく帰ってきた」と歓迎してくれる。でも、腹の底では「それ見たことか」と嘲られるに決まっている。それなら帰らないで頑張ろうと思った。
そんなときに人づてに「近く開店する日本レストランで日本人女性を探している」という話を耳にした。これが『ききょう亭』の前身の『FIMAらん亭』だった。ルック・イースト政策を受けて、日本にあるファミリーレストランの雰囲気の店で、日本の伝統文化を紹介しようというのがサラワク州経済開発局が日本レストランを作った理由だった。
酒井さんの日本式の接客マナーは州政府の人々にも好感をもたれた。次第に責任あるポジションを任されるようになり、仕事がたのしくなり、仕事に情熱を燃やした。夫は借金をしては事業を始め、そして失敗するといった悪循環をくり返していた。家庭の中では男のプライドと生活のために自分のために仕事をする女の意地との確執がどうにもならないところまできていた。夫との家庭をとるか、生きていくために仕事を取るか、二者択一を迫られた。酒井さんは仕事を選んだ。幸い、3人の子供たちはお母さんと一緒の生活を望んでくれた。
|