ヨイトマケの唄
 5月15日号のニュース・コラムにに50年前、『日本がもっとも貧しかった頃』というのを書いた。福岡の筑豊の近くの出身の人や、50代以上の人から、コラムに書いた「ヨイトマケの唄」を「いい唄だよね」、「そんな時代だったよね」と話しかけられた。
そう、昭和30年頃、わたしが小学生だった頃、ベビーブームの前年生まれのわたしたちも一学級60人以上という過密教室だった。でも、同級生が多いということは、友達をとおして見る社会が広がるということで、よかったと思っている。医者や大地主といった金持ちの子供がいた。わたしのようなサラリーマンの子どももいた。場所柄商店の子供たちが大勢いた。そして、おんぼろ長屋に住んでいる子供や掘っ立て小屋に毛の生えたような家からかよっている子どももいた。

同級生のO君の家はまさしく掘っ立て小屋だった。汚れたまんまの服を着たはずれ者で成績もよくなかった。わたしは、なぜかこのO君と気が合った。わたしを「ちゃん」づけで呼んでくれた。1、2ヶ月に一度、O君はわたしの家に遊びにきた。わたしがいなくても、わたしの母と話をしていた。母は「すなおないい子ね」とO君を評していた。

母は家のすぐ近くに住む、近所では不良兄弟といわれているUさん兄弟たちにも好かれていた。当然、わたしの兄弟も親しくて名前を呼び捨てでよんだり、「ちゃん」づけで呼び合っていた。

わたしたちの身近にはそんな友達が何人もいた。そして、一緒に遊んでいた。「勉強しなさい」、「勉強しなさい」といつもうるさい母が、O君やUさん兄弟を受け入れていたように、わたしも当たり前のように付き合っていた。
母の父、つまり、わたしの祖父は戦争が終わるまで、東京の下町の土建屋兼やくざの親方だった。だから、子供の頃に自分のまわりにいた人たち、荒くれ者やはずれ者ほど、根はすなおだと信じていたようだ。

高校に入った頃から、O君やUさん兄弟とは疎遠になってしまい。気がついたときにはO君は二十代で亡くなっていた。Uさんの一番下の弟はやくざ一筋、帰郷したときに偶然町であったりすると、「懐かしいなあ」と肩を叩き合う。
近所では評判のよくなかったO君やUさん兄弟と親しい友達だったことが、わたしの人生観にいい影響を与えてくれていると思っている。それに、うるさくて、うっとうしい母親だけど、彼らをほんとうにかわいがっていた母をすばらしいと思っている。
90年以上の人生で他人や何かを誉めるということをほとんどしなかった母が、「この唄はいい唄よ」と感動していたのが、『ヨイトマケの唄』だ。

ヨイトマケの唄   作詞・作曲 丸山明宏
父チャンのためならエンヤコラ。
母ちゃんのためならエンヤコラ。
もうひとつおまけにエンヤコラ。
今日も聞こえる ヨイトマケの唄。
今日も聞こえるあの子守唄。
工事現場のひるやすみ、たばこふかして、
目を閉じりゃ、聞こえてくるよ、
あの唄が、
働く土方のあの唄が。貧しいど土方のあの唄が。
子供の頃に学校で、ヨイトマケの子供、
きたない子供と、
苛め抜かれて、はやされて、
くやし涙にくれながら、
泣いて帰った道すがら、
母ちゃんの働くとこを見た。
母ちゃんの働くとこを見た。
姉さんかむりで、泥にまみれて、
日に灼けながら、汗を流して、
男に混じって綱を引き、天にむかって声あげて、
力の限りうたってた、母ちゃんの働くとこを見た。
母ちゃんの働くとこを見た。
慰めてもらおう、抱いてもらおうと、
息をはずませ、帰ってきたが、
母ちゃんの姿を見たときに、泣いた涙も忘れはて、
帰っていったよ学校へ、
勉強するよと云いながら。勉強するよと云いながら。
あれから何年たった事だろ。高校も出たし、大学も出た。
今じゃ機械の世の中で、おまけに僕はエンジニア。
苦労、苦労で心でった、母ちゃん見てくれこの姿。
母ちゃん見てくれこの姿。
 
     
 
 
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