独立記念日の8月31日が近づくと、クアラルンプール首都圏では車に国旗を立てて走ったり、ビルの壁面の窓全体に国旗を貼付けたりして、町中、いや国中で国旗がはためくようになる。
フェデラルハイウィエイ沿いのRTM(国営放送局)の建物やクアラルンプールの中心にあるコンコルドホテル、ジャラン・ハントゥアのアパート群などは、思わず見とれてしまうほどの壮観だ。走行中の車で一番目につくのは、やはり大きな国旗をはたはたと翻しているトラック(マレーシアではローリーという)やバスだ。タクシーや小型乗用車では5本も10本も小さな国旗を立てているものもある。
この光景をみるたびに思い出すのは、子供の頃に見た日本の戦争を描いた映画にある人々が手に手に「日の丸」をふって、戦場に赴く兵隊さんを見送っている光景だったり、「日の丸」を掲げて勝利を誇ったり、逆に銃弾に倒れる兵士たちだ。軍国主義のシンボルとしての「日の丸」だった。東京オリンピックがあり、大阪千里丘で万国博覧会が開催された頃からは、「日の丸」は日本の発展の象徴でもあった。オリンピックで、あるいは世界最高レベルのスポーツ競技大会で日本が闘っている。そして、「日の丸」がひるがえるのとき、日本人としてのアイデンティティーが高揚する。それは大きな力でもあった。
それでも、「日の丸」につきまとう暗い影を追いつづける人たちがいた。「二歩丸」には影の部分と陽の当たる部分がある。でも、それを気にしていたら、世界中のどの国の歴史にも陰もあれは陽もある。歴史には「国旗」画深く関わるのは当然だ。こわいのは、陰の部分を隠してしまい、陽の部分だけをクローズアップする人たちだ。ときには陰の部分を美化して語ろうとする。また、一方では、陽の部分にも目をつぶってしまい、「日の丸」イコール軍国主義、悪と叫んでいるグループもある。
そんなこんな、「日の丸」については百人いれば百様の思いがある。ただ、間違いないことは、ほとんどの日本人は「日の丸」についてふだんは「空気のようなもの」と感じている。「日の丸」を見て、どっかの国と戦争をしようなどと考える人は皆無に近い。戦争をしようと叫ぶ人であっても、自分が戦場に行って飛び交っている銃弾の真っただ中に飛び込みのはごめんだと思っている。
ただ、中国や韓国の少数の人たちが反日運動で「日の丸」に火をつけて燃やしている映像がニュースで流れると、空気のような存在の「日の丸」がナショナリズムの象徴となって、反中国、反韓国になり、日本全体が右傾化することになる。愚かなことだが、そういう傾向をあおっているのが、日本、中国、韓国のリーダーたちだ。わたしは思う。それでも、日本人の大多数は世界中のどの国の人たちよりも平和主義を信奉している。「日本が中国や韓国なんかに負ける訳がない」と言いつつも、「あんなに興奮することないじゃない。もっと、仲良くすればいいのに」と思っている。
マレーシアの国旗に埋め尽くされたクアラルンプール首都圏。この国には、マレー人、華人、インド人、その他の少数民族がマレーシア国民として誇りをもってほしいという願いがある。内閣にも国民統合を担当する首相府相がいるのは、多民族、多宗教国家の舵取りがひじょうに難しいからだ。誇りのよりどころは経済発展であり、多民族多宗教が諍いなく共存していることだ。
国旗は国民統合のシンボルだ。マレーシアの国民歌謡にはやたらと「マレーシア」という国名が登場する。でも考えてみたら、日本サッカーの応援歌にはめったやたらと「日本」が登場する。それでいいのだと思う。マレーシアでは、国旗は空気のような存在とはちょっと異質だと思う。よりよい未来になるようにという思いがあるような気がする。
ただ、国旗をつけて走っている車が傍若無人に運転するのは、国旗に背く行為だということも分かってほしいと思う。 |