翼に輝く「日の丸」の重さに感謝
 JAL(日本航空)が 1967年5月8日、クアラルンプール便の第一便を飛ばして以来、今年で40周年を迎えました。
 日本航空は敗戦後間もない1951年8月、プロペラ機時代に誕生し、貴重な航空輸送機関として日本の経済発展を後押ししてきました。1967年3月には世界一周航路が完成し、2ヵ月後に就航したクアラルンプール線はバンコク経由でスバン空港に到着していたのです。
 1975年8月4日には日本赤軍によるクアラルンプールの米大使館占拠事件があり、米総領事などが人質になり、当時の三木武夫首相は「超法規的措置」で逮捕拘留中の過激派5人を釈放し人質と交換する事件があり、日本航空機は活躍した。日本赤軍、赤軍派といった過激派グループはナショナルフラッグを掲げる日本の象徴的存在だった日本航空機を狙い、ハイジャックするなど辛い時期もありました。
 また、1977年9月27日には日本航空715便が悪天候のためスバン空港の着陸に失敗したという悲しい事故もありましたが、イスラム国家などで革命が起きたり、暴動や内乱、大規模な自然災害があるたびに、日本航空機は在留邦人の救出活動に必ず加わっていました。日馬プレスの『岡一之の半生記―わが人生の凍土渇土』にも1979年にイランのイスラム革命のときにテへラン残っていた日本人たちを迎えに来た最後の日本航空機のレスキュー・フライトがきたときの様子を――テヘランのメハラバッド空港で、自分たちを乗せて日本へ連れていってくれる日航機の翼に輝いていた「日の丸」を見上げた。「日の丸」の向こうに抜けるような青い空があった。(中略)辺境の地で見る「日の丸」は素晴らしい。「日本人でよかった」と、しみじみ思った。――と書いてあります。
 翼に輝いている「日の丸」は、混乱する異郷に残された人々にとっては、日本そのものだったのでしょう。もちろん、
 レスキュー・フライトは日本航空だけでなく、大規模災害時などでは全日空も飛ばして多くの日本人を救出しています。それでも翼の「日の丸」はやはり心に残るのでしょう。
 日本航空は各国の首都など主要都市を飛んでいます。十数年前、ジャカルタでお母さんが危篤の報を受けたある駐在員が、日本に帰ろうとしてもガルーダ・インドネシア航空も、シンガポール航空もマレーシア航空もフルブッキングでチケットが入手できないで困っていたとき、最後の最後の望みの綱が日本航空だったのを覚えています。とりあえず発着便数が圧倒的に多いシンガポール空港に行き、そこで日本航空の空席をもらって帰国できたと知らされたときの感動は忘れられません。
 わたし自身は日本航空機にはほとんど乗らないけれど、日本航空が飛んでいるというだけで安心するのです。最後の最後にはJALが助けてくれるという勝手な思い込みですが、大きな心の拠り所であることには違いありません。

 その日本航空が経営的な苦境に陥っています。銀行などの支援を得ても、予想を超えた赤字が発生しています。不採算になったからといって、首都や主要都市に飛ばしていたフライトを停止すれば、在留邦人たちのショックは大きい。「緊急避難が必要な出来事があったとき、頼みの綱の日本航空がない」というのは不安です。それだけでなく、日本とその国、その都市との様々な交流が途絶えてしまいます。航空機と言うのは人や貨物を移動させるだけではなく、経済活動や文化交流、相互理解などに大きく貢献しているのです。国と国の、人々と人々の友好親善がここから始まるのです。
 ナショナル・フラッグの重みもあって、不採算でも路線廃止ができないのでしょうが、そのお陰でここマレーシアと日本の関係も良好なまま継続しているのだと思います。わたしたち在留邦人も少しでも協力していくべきだと感じています。
 仕事の関係でわたしはめったに乗りませんが、その代わり、友人知人を乗せています。それで勘弁してもらおうと願っています。

 
     
 
 
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