ミャンマー騒擾
 日本の友好国であり、1954年の独立以来、戦後賠償から様々な経済支援をしてきたミャンマーで、軍事政権の経済政策に対する不満をきっかけに、僧侶たちが中心になって行われてきた反政府デモに対して、重火器で武装した国軍や警察などの治安部隊が手も参加の僧侶や一般市民にむけて銃弾を浴びせるという暴挙にでた。混乱を取材中の日本人記者の長井健司さん(50)が治安部隊兵士の銃弾を浴びて死亡した。兵士によって。至近距離から銃撃されたと見られる映像があり、軍事政権は外国人ジャーナリストを含む、僧侶や一般市民を無差別に銃撃し、鎮圧しようとしていたらしい。

 ミャンマーは英国統治時代ビルマを呼ばれていたため、1989年、軍事政権によって現地語の発音に忠実にミャンマーと改めた。1962年に軍事クーデターによりネ・ウィン将軍が全権を掌握し、「ビルマ式社会主義」を標榜して、ネ・ウィン政権による軍事独裁国家となった。ビルマは中国、ソ連など他の社会主義国家と同様に、閉鎖的経済政策をとる一方で、軍部や一部政商による腐敗によって富はごく一部に偏っていった。また、民主化勢力や少数民族を武力で弾圧するなど国民の生活レベルは、一人あたりのGDP219ドル(2005年)と最貧国なみにとどまり、外貨準備は枯渇し、対外債務が累積、生産は停滞と、経済は不振をきわめていた。

 イギリス統治下時代、最大の米輸出国であり、チーク材など木材をはじめ、石油など地下資源も豊かだった。アジアで有数の第一次産業国家だった。国民の識字率は高く、勤勉でおだやかな民族性から、第二次世界大戦後、東南アジアでもっとも資源が豊富で、一番に発展するだろうと見られていた。それなのに、ビルマは国営企業主導の経済が裏目に出て、工業化ができず、経済的に他の東南アジア諸国に大きく差をつけられた。
 1988年、ソウ・マウンによる軍事クーデターでソウ・マウンが国家平和発展評議会議長になり国家元首になった。1990年に国民議会選挙が行われ、国民民主連盟(NLD)が485議席中392議席を獲得したが、軍事政権は選挙結果を認めず、NLDのシンボルでもあるアウン・サン・スー・チー女史を軟禁し、政治活動を封じている。

 以来、欧米諸国はミャンマー国内の人権問題や週数民族弾圧、民主化をめぐって対立し、経済制裁を受けている。日本は、88年に政権を奪った国家平和発展評議会をいち早く承認し、軍政との友好関係を維持した。アウン・サン・スー・チー女史が拘束されるまで無償資金援助をしてきたが、国際世論に追随して緊急で人道的な援助だけを行っている。欧米諸国からは「日本は悪徳軍事政権に手を貸している」と見られている。
 
     
 
 
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