プロローグ
川内光治先生の記憶
日馬プレス 渡邉明彦
 
 川内光治先生の名前を初めて知ったのはマレーシアにきて間もなく、クアラルンプール日本人会がまとめた『クアラルンプール日本人墓地』のという冊子に「戦後四十年をふりかえって」という文が川内光治という名前で掲載されているのを見たときだった。
 同書には、太平洋戦争敗戦の混乱の中でマレーシアの日本人社会を支え、現在のマレーシアの繁栄の一翼を担い、親密な関係を築く礎となった二人の日本人が登場する。森敬湖氏と川内光治氏だ。お二人は奥さん同士が姉妹であり、森氏は教育者としてクアラルンプール市民の尊敬をあつめ、川内氏は歯科医として地元の人々や日本人学校の児童生徒、多くの日本人の歯の健康を見てきた。両氏のひととなりを知って、わたしは一度も会うことがなかったお二人をごく自然に「森先生」、「川内先生」と呼ぶようになった。
歌唱する御手洗さん
 ごく一部の人だけが知っていたことだったが、10月20日に逝去されたアブドゥラ・バダウィ首相夫人のエンドンさんのお母上が森先生や川内先生の奥さんたちと姉妹になる。川内先生ご夫妻はエンドンさんのおじさん、おばさんということになる。けれども、川内ファミリーはそんな気配はまったく見せない。わたしが最初に首相と姻戚関係にあることを知ったのは、ファッション関係の仕事をしていたエンドンさんの出された本に、若い頃の川内夫人の写真が“おば”と紹介されて載っていたことからだ。その記憶がなければ、エンドンさんと川内夫人の関係など知らないままで終わっていただろう。
 わたしが川内先生に深い関心をもつようになったきっかけは、柔道をとおしての親しい友人である御手洗誠一さんだ。三十数年前(1971年から73年)、マラヤ大学に留学していた頃、苦学生だった御手洗青年を陰に陽に支えてくれたのが川内光治さんファミリーだったという。ジャラン・トゥンク・アブドゥル・ラーマンで歯科医をしていた川内先生には、娘さんが二人だけ、柔道青年でもあった御手洗さんを我が子のようにかわいがってくれたという。
 シンガポールで歯科医師をしていた父の跡を継いで歯科医を開業していた川内先生は、太平洋戦争という嵐に襲われた。インドのニューデリーに抑留され、敗戦後には日本でも苦しく、惨めな思いをした。そんな中で、幾度も幸運に恵まれ、クアラルンプールに戻ってきた。
 川内先生は御手洗青年に、苦しくつらかった生活、そして、めぐり合った人々の温かい心を語ってくれたという。義理の兄弟である森敬湖先生、そしてもう一人の永住日本人である天藤氏とともにクアラルンプール日本人会の創設に加わり、日本人墓地の整備、維持管理に尽力した。また、クアラルンプール日本人学校の校医として児童生徒の歯の健康管理をしてきた。現在、千数百社の日本企業がマレーシアの人々の中に溶けこんで、日本人が安全に暮らしていられるのは、森先生や川内先生、そして「からゆきさん」たちなど名もない人々のおかげだと御手洗さんは感じている。
治療中の川内先生
 実は御手洗さんも、一年ほど前に「川内先生の奥さんは首相夫人のおばさんですよ」とわたしが言うまでそのことを知らなかった。
 この連載では、川内先生から若き日の御手洗さんが耳にした先生の思い出をたどりながら、川内先生の一生を追っていく。御手洗さんの口述、川内先生の奥さんや娘さんのエミさんの話を聞きながら、1989年4月発行の10号から91年8月発行の16号までのクアラルンプール日本人会の会報『日馬和里』に「ある日系マレイシアンの記録」として掲載された石橋總吉郎氏が書かれた文を参考に氏名や年号・日時、地名などを再確認、そしてシンガポール日本人会が1978年に発行した『「南十字星」記念復刻版』を時代考証の参考にしてまとめている。
 
 
<本稿は日馬プレス第310号(2005年11月11日)に掲載されたものです。>
     
 
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