川内光治先生は。歯科医師だった川内源吾氏を父に、とくさんを母に東京の中目黒で大正三(1914)年十月七日に生まれた。男五人、女三人の八人兄弟姉妹の三男だった。不幸なことに、長兄の繁治氏はシンガポールで運転していた日本製の車のステアリングのピンが折れるという事故で重傷を受け、それが原因で死亡した。次兄の年治さんは一二才のときに鹿児島で日射病で倒れ、息を引きとった。すぐ下の弟の英治氏は海軍に任官し、終戦の年の昭和二十年二月、初めて乗船した艦が出航後に消息不明となり、帰還しなかった。アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没したのではないかと推測されている。不慮の事故や病気、戦争で三人の兄弟を失ったが、川内先生を含む残された五人の兄弟と妹は敗戦後の日本で生活し、のちに川内先生ファミリーだけがマレーシアに戻った。
父、源吾氏は、シンガポールで歯科医院を開業していた友人の米陀(よねだ)という名の歯科医がアメリカに移住することになり、米陀歯科医に頼まれて彼の歯科医院をを引き継ぐことになった。大正七(1918)年源吾氏ととく夫妻は当時四歳だった三男の光治さんと一歳だった長女のとみこさんをつれてシンガポールに移り住むことになった。当時十歳だった長男の繁治さんと七歳の次男年治さんは、日本で教育をうけるために鹿児島の源吾氏の母の住む実家に預けられた。
昭和元年のシンガポール日本人街について書かれた、辻森民三著『新嘉玻てびきぐさ』1926年花屋商会書籍部刊には、「ブラスバサ路の邦人は、旭写真館、蔦田、川内、本間一英の歯科医院、スダ―商会、城台印刷所、今村理髪館、多久島鉱金製作所、秀工舎、賀川鼈甲店などがあり・・」とある。ブラスバサ路はラッフルズ・ホテルからオーチャードロードに向かう道だ。この道路からブギス・ストリートにかけてのマライ街のあたりに日本人街があった。
大正七年頃のシンガポールには日本人の進出が目立ち、日本人会員数は559名、賛助会員26名になっていた。大正二年に東洋ホテルに間借りして開校した日本人学校の自前の用地が取得された。新校舎は大正九年に完成した。町には日本製品があふれるようになり、華僑社会では日貨排斥運動が劇化していた。大正十年の日本人学校の児童生徒数は122名、十一年は145名、大正十五年(昭和元年)には200名を越えた。
自由港だったシンガポールは、貧しさから両親によって売り飛ばされた、あるいは甘い話しの乗せられてだまされてきた十代前半から中ごろの少女たち、”からゆきさん”の集積地だった。シンガポールの娼館で娼婦としてマレー人やインド人、イギリス人、そして華僑の男性たちを相手に身体を売って、女衒(ぜげん)と呼ばれる”からゆきさん”を食い物にしている男たちに搾取されて残ったわずかな金を日本の両親に送っていた。シンガポールからマレー半島のバツパハ、マラッカ、セッテンハム(現在のクラン)、イポーなどへ、インドネシアのバタビア(現在のジャカルタ)やパレンバンへ、ビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)などへ移動させられていった”からゆきさん”も多かった。明治三十三(1900)年頃には、シンガポールに七,八軒の娼館があり、3,400人の日本女性、つまり”からゆきさん”がいた。富国強兵を掲げて軍事力を強化していった明治政府にとって、”からゆきさん”や真珠取りの潜水夫など海外に出稼ぎに行った人々からの送金は貴重な外貨だった。
明治三十八(1905)年四月八日午前8時半、前年に開戦した日露戦争の雌雄を決すべく、黒煙をたなびかせた43艘のロシア・バルチック艦隊がシンガポール島のラッフルズ灯台方向から姿をあらわした。威風堂々と沖合いを航行する艦隊は、日本人には無敵に見えた。涙を流し、日本の勝利を神に祈った日本人の多くは”からゆきさん”たちだった。ポート・セッテンハムやマラッカでも多くの”からゆきさん”たちが祈った。自分を捨てた祖国日本のために。
東郷平八郎大将率いる日本海軍は日本海開戦で劇的な勝利を飾った。このニュースに、マレー人もインド人も華僑も、すべてのアジア人は驚喜した。クアラルンプールでは日本人と華僑連合が一緒になって提灯行列をした。それまで欧米列強の前では無力と思いこんでいたアジア民族が欧州の大国ロシアに勝ったということは、アジアの国々に希望と勇気、そして自信をもたらした。この流れが孫文による中国革命、フィリピンやインドの独立運動を台頭させた。
明治四十三(1910)年当時、シンガポールの在留邦人数は娘子軍と呼ばれていた”からゆきさん”約300人を含めて1,700人余りだった。この年、日本人会が発足した。明治四十五年には生徒数26人の日本人学校が開校した。
日露戦争後、シンガポールに日本人は次々に進出してきた。ホテル、洗濯屋、理髪店、雑貨商、呉服屋、薬屋、そして娼館もふえていった。日本は一等国の仲間入りをしつつあった。日本政府にとって娘子軍と呼ばれていた”からゆきさん”は「体面を汚す」存在となっていった。大正二年、まず、嬪夫と呼ばれる”からゆきさん”を食い物にしている男たちが追放された。
大正三(1914)年八月四日にヨーロッパで第一次世界大戦がはじまった。ヨーロッパ人たちは一斉に母国に帰っていった。代わって、78社もの日本の商社がどっと進出してきた。シンガポールへの輸入品は日本製品ばかりになった。華僑商人たちの商圏は傍若無人な日本企業に蹂躙されていった。翌年、日本は中国に対して「21箇条の要求」を突きつけた。華僑商人たちの怒りは爆発し、日本製品のボイコット運動、「日貨排斥」に発展していった。この打撃を受けたのは日本企業だけではなく、取引額の80%を日本からの輸入品に依存している華僑商人にとっても大打撃だった。倒産して故郷の中国に帰る架橋が大勢いた。大正六年にはロシア革命があり、帝政ロシアが崩壊した。大正七年は第一次世界大戦が終結した。日本では米騒動が起きている。翌八年、中国では反日の5.4運動が行われた。
大正九(1920)年、シンガポール日本人会の会員数は1,200名、賛助会員も40名に激増していた。この頃、マレー半島全体で”からゆきさん”は約1,500人いた。彼女等が稼ぐ金は年間1000万ドル。日本に送金されたり、ゴム園などへの投資金になった。日本の家族を思い、わが身を売って稼いだ金を送金し、そして、間接的に日本の海外投資や富国強兵に役に立っていた彼女等を、日本政府は醜業婦を蔑んだ。大正九年1月にはシンガポールの山崎総領事代理によって娼館廃止、廃娼を断行した。運のよい女性は現地人やヨーロッパ人と結婚したり、囲われ者となった女性もいた。日本に帰った女性も多い。しかし、日本に帰っても、彼女たちにふつうの暮らしをさせてくれる社会は日本にはなかった。多くは貧困と差別に苦しみ、そして、死んでいった。もちろん、シンガポールからアジア各地に散っていった”からゆきさん”も多い。太平洋戦争に敗れ、大多数の日本人がマレーシアを去っていったあと、残った”からゆきさん”たちが、クアラルンプールや各地の日本人墓地の管理をしてくれていた。川内先生が寄稿したクアラルンプール日本人会の『クアラルンプール日本人墓地』のという冊子に「戦後四十年をふりかえって」に、墓地を守ってくれた”からゆきさん”への感謝の気持ちが書かれている。
日本企業の進出が盛んになると、シンガポールに住む日本人は、「グダン族」と「カキリマ(下町)族」に二分された。「グダン族」とは、シンガポールの心臓部、バッテリー・ストリートやラッフルズ・広場のある、通称「グダン」と呼ばれた一帯にオフィスのある地区で、ここには大資本の商社や銀行、船舶業者などの支店が集中していたことから、一流企業のエリート駐在員のことを言う。「カキリマ族」は個人商店や中小零細企業、娼館などではたらく人々。三年程度で帰国する人々と、シンガポールに永住するつもりできた人たちとに分類された。「グダン族」の人々は総領事館とも親しく、「カキリマ族」は日本の外交官などとはめったにお目にかかれない状況だった。日本人社会は二分されていたものの、対立していたわけではなかった。「カキリマ族」はエリートの存在を認め、階級差別を容認していた。対立はむしろ「グダン族」同士、「カキリマ族」同士であった。
おもしろいのは、「カキリマ族」の人たちの方がおしゃれで、カイゼル髭をはやし、髪をきちっと分けてポマードでかため、ヘルメット帽をかぶり、詰襟の五つボタンの洋服を着ているひとがいた。一方の「グダン族」にとっては、シンガポールは地の果て、場末という感じでいたので、ステテコやふんどしのままでいても、気にすることはないと感じていた。
両方に共通するのは「日本人は一等国民」という意識だった。そして、現地社会と隔絶して、日本人だけでつどい、遊び、スポーツをする独自の社会を形成した。日本人会が設立され、日本人学校が開校された。こうした国際性のなさが、華僑による日貨排斥運動を助長していたことは否めない。もちろん、21箇条の要求をはじめ、中国に対する日本軍の武力行為が華僑たちを反日に駆りたてたこともある。第一次、第二次の山東出兵、張作霖爆殺事件、満州事変、上海事変、満州国建国、日華事変、南京占領
、シンガポールではビジネスで蹂躙され、中国本土では軍靴によって蹂躙された華僑によるシンガポールでの日貨排斥運動は断続的に起こった。大正八年、大正十一年、昭和二年とつづき、昭和三年には登校中の日本人学校児童に投石するものがあった。昭和五年。昭和十(1935)年には華僑の暴徒たち200人余りが日本人クラブを襲い、多数の負傷者をだした。
昭和初期、シンガポールの人口は約17万人と言われていた。太平洋戦争前、在留邦人数は最大で3,600人だった。
光治少年は小学校の前半をシンガポール日本人学校で、後半を鹿児島の学校に通った。小学校卒業後にシンガポールに戻り、英語教育を受けた。一八歳の時に再び日本に戻り、福岡県の小倉医学専門学校で歯科医学を学んだ。二十歳になり、日本国籍をもつ川内青年は徴兵検査を受けることになった。幸か不幸か、痩せぎすだった川内青年は実質的に不合格となり、兵役をまぬがれた。筋骨たくましい九州男児の中にあっては、試験官には軟弱に見えたのだろう。
昭和十一(1936)年、大学を卒業した川内青年はシンガポールに戻った。自由港として栄えていた国際都市シンガポールで幼年時代をすごした川内青年には、世界恐慌のあおりを受け昭和大恐慌と言われた不況下の日本で、前年に起きた満州事変勃発による軍国化の流れは愉快なものではなかったのだろう。シンガポールに戻ると、川内青年は東南アジア諸国で開業している、父源吾氏の友人の歯科医を手伝いながら放浪して歩いた。タイ、カンボジア、ビルマ(現在のミャンマー)、インドネシアのスマトラ島のパレンバンとジャワ島のバタビア(現在のジャカルタ)などを転々とした。なりたての青年歯科医師の修行の旅であり、好奇心に満ちた若者の冒険でもあったのだろう。
仏教国のタイ、ビルマ、カンボジアでは質素な僧衣をまとった修行僧を街のあちこちで見かける。日本と同じ仏教徒の国であるがゆえの親近感をもったようだ。中でも居心地がよかったのはビルマだったようで、一年あまりも滞在した。徒歩と牛車を交通手段に、ゆったりと時が流れていく。その素朴さに川内青年は共感するものがあったようだ。
オランダが植民地統治をしていたインドネシアは穏健なイスラム教徒の国で、泥棒や乞食のいない平和でのんびりとした国だったという。数十年前の日本の田舎の部落や街のように、人々は助け合い、力を合わせて生活していた。他人のものを盗む人がいないので、どの家にも鍵をかけるという習慣はないのだという。
三年半に及ぶ東南アジアの旅を終えて、昭和十五(1940)年五月、25歳の川内青年はシンガポールに戻った。その前年に母のとくさんが病に伏した。父の源吾さんは二十一年間やってきた歯科医院を共同経営者の竹内医師に託し、昭和十五年二月、旅行中の光治青年を除く、子供たちとともに故郷の鹿児島に帰っていた。とくさんは翌年五月八日、子宮ガンで死去した。
源五さんはシンガポールに戻って、歯科医院を竹内医師とともにつづけようと旅券を申請した。しかし、ABCD包囲網(Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは中国、Dはオランダ)と呼ばれた対日経済封鎖によって日本は孤立をふかめ、軍部には「戦争もやむなし」との気運がつよまっていた。竹内医師を手伝い、歯科医をつづけていた川内光治青年の周辺にも戦雲が立ちこめられつつあった。昭和十五年には、経済封鎖によって、日本への送金は禁止された。シンガポールを統治しているイギリスの官憲がうしろで糸を引いて、諜報員(スパイ)たちが日本人や企業の監視をつよめていた。日本軍の諜報活動も活発化していた。それでも、米英、とくにアメリカの圧倒的な物量と軍事力を熟知する、貿易の要衝であり、東南アジアでもっとも重要な米英連合国の軍事拠点でもあるシンガポールの在留邦人たちは日本が開戦を決断するとは思ってもみなかった。
川内青年にも中国人の監視がついた。たまたま、この監視役は川内青年と親交があった。稼いだ金を日本に送ることができない。シンガポールで使いきってしまうしかないと思った川内青年は「自分と一緒に行動していれば大丈夫だから」という監視役兼友人とともに毎晩のようにナイトクラブで飲んで遊んだ。ある日、どうしても飲みに行く気持ちになれないで、友人の誘いを断った。その日、五月八日、ははのとくさんが不帰の人となった。天国に旅立つ母の、シンガポールに残った我が子光治青年への思いが、海を越えて伝わってきたのかもしれない。
開戦を前に、在留邦人たちの日本帰還がはじまった
邦人婦女子の帰還勧告がだされたのは昭和六(1931)年だった。本格的に日本人や企業の引き揚げは昭和十一年にはじまった。シンガポールで生活する中国人もマレー人も、イギリス人や日本人さえも、まさか日本が戦争に踏み切るとは信じられなかった。川内青年も緊迫感はなかった。ABCD包囲網による経済封鎖が行われ、帰還勧告はだされていたが、日本人に対する弾圧はほとんどなく、街は自由に歩くことができた。いつもと変わらない日がつづいていた。川内青年も帰還船に申し込んだ。順番待ちで第二十八番目の船になった。
開戦の三日前の昭和十六年十二月五日、灯火管制が布かれた。それでも外出禁止令はだされなかった。運命の日が近づいた。