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その三
戦後のマレーシアの日本人社会の形成に功績 |
| 日馬プレス 渡邉明彦 |
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シンガポールに最後まで残るつもりはなかった。しかし、川内青年の乗るはずだった帰還船はこなかった。十八番目の船が日本に向けて出航していった。日本人商社員、大手企業の駐在員たちが次々に引き上げていった。バンコクやサイゴンに避難する者もいた。
それでも、シンガポールにとどまっていた日本人たちには、戦争がよそ事のように感じられたのは、シンガポールを統治するイギリスの戦闘能力を目の当たりにしていたからだろう。「まさか、そんな無謀なことを」という思いがあったに違いない。第二次世界大戦がヨーロッパで口火を切ったのが1939年(昭和十四年)9月3日。昭和十五年には日独伊三国同盟ができて、戦争不可避の状況になっても、シンガポールではまだのんびりとした空気がただよっていた。日本人社会とインド人や華僑たちとのスポーツの交流も盛んに行われ、テニスやゴルフの試合などもあったという。
1932年(昭和七年)、中国侵略を進める日本軍の台頭を脅威と判断したイギリス議会は、シンガポールの海軍根拠地建設案を可決、本国から10万トンの浮きドックを運ぶなどして、軍港としての設備を拡充した。イギリス軍は、日本軍は必ず、海の方から攻めてくると確信していた。戦争直前の昭和十四年から十五年には、シンガポール島東、南、西からの攻撃に備えて、トーチカが構築され、鉄条網が張り巡らされた。セントーサ島には15インチと9インチの巨砲が海に向けて据え付けられた。昭和十五年に新設されたイギリス極東軍司令部は「シンガポール防衛は万全である」と評価していた。
日本がイギリスとアメリカを主体とする連合国と
昭和十六(1941)年十二月八日午前三時十五分、日本軍の戦闘機がシンガポールを爆撃した。午前五時、川内青年は自宅で警官によって拘束された。
その日、`日本軍第二十五軍(司令官・山下奉文中将)の戦闘部隊の主力となった第五師団(師団長・松井太久郎中将)はタイ南部東岸のシンゴラとパタニを目指した。タイとの協定で日本軍は平和裡に上陸する手はずになっていたが、協定成立が遅れ、小規模の戦闘があった。歩兵第四十一連隊が上陸の第一歩をとげたのは午前四時十二分だった。第五師団の上陸が完了したのは同日正午頃だった。パタニ上陸もほぼ同じ時刻だった。
それより先の同日午前一時三十分、日本軍第二十五軍から分かれた侘美支隊(兵力5,300名・指揮官侘美浩少将)は、モンスーンの悪天候をついて、英領マレー東海岸のコタバルのパンタイ・サバに上陸した。一般にハワイ・マウイ島真珠湾への奇襲攻撃が、太平洋戦争の火蓋をきったと言われているが、実際はコタバル上陸によって太平洋戦争ははじまった。
コタバル周辺には三カ所の飛行場があり、雷撃機を含む四十機前後の航空機が待機していた。第二十五軍のタイ上陸を阻止しようと、これらの航空機が飛来し第五師団を乗せた輸送船を攻撃したらひとたまりもない。侘美支隊のコタバル上陸作戦は、コタバルを守備するインド第八旅団を釘付けにし、イギリス軍の戦闘機による爆撃を防ぐためだった。
激しい戦闘で侘美支隊は戦死320名、戦傷538名という大打撃を受けた。残されたイギリス軍のトーチカの中には、足首を鎖でつながれたインド兵が銃を抱えて死んでいた。
午前三時すぎにシンガポールを空襲したのは ベトナムのサイゴンを飛び立った海軍第二十二航空戦隊だった。英国陸軍戦闘機隊司令室のレーダーは、約30分前に飛来する戦闘機軍を捉えている。直ちに空軍司令部と民間防空本部に連絡したが、迎撃機も飛び立たず、灯火管制も布かれなかった。空軍司令部は、出撃準備を整えていたはずのバッファロー戦闘機は夜間飛行の訓練が充分にできていないという理由で出撃命令はだされなかった。(ここまで日本時間)
日本海軍航空隊は街灯で照らされた市街、飛行場を悠然と爆撃した。民間人を含む死者60名余り、負傷者は133名だった。英軍のコタバルに日本軍が上陸したと報告されたのは午前十時だった。八日午後五時、イギリス軍は極東艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」と四隻の駆逐艦をコタバル、とシンゴラに上陸した日本軍を撃滅するためにシンガポール港を出港させた。
日本海軍航空隊の爆撃でシンガポールに配備されていた航空機約160機は、飛行可能な航空機は50機になっていた。コタバル周辺に配備されていた航空機も壊滅し、極東艦隊は航空機の支援がほとんど期待できない状況で北上をはじめた。
十日午前十時すぎ、日本海軍航空戦隊が極東艦隊を発見し、一時間後に戦闘にはいった。激しい戦闘の末、二隻の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」を撃沈した。日本軍機の損害は三機だけだった。
のちに、イギリスのチャーチル首相は「あらゆる戦争で、これほどショックを受けたことはなかった」と語ったという。世界の海を縦横無尽に渡り歩き、無敵をほこったイギリス海軍の無惨な敗北だった。 日本軍がシンガポールに最初の爆弾を投下したのは昭和十六年十二月八日午前三時十五分(シンガポール時間)だった。川内光治青年の家をイギリス人警部と部下のマレー人やインド人の警官が訪れたのは午前五時だった。川内青年は逮捕され、警察に連れて行かれた。警官たちは只「来い」と言うだけだった。戦争がはじまったことを知らない川内青年には何がなんだかわからないままだった。着替えや身の回りの物などをもっていこうとしたが、「そのままでいい」と言われ、着のみ着のまま、シャツ一枚でカトンの警察分署に連れて行かれた。
おかげで、インドの収容所で衣服の支給があった半年先までシャツ一枚で過ごさなければならないはめに陥ってしまった。顔見知りだった分署の署長に逮捕の理由を聞いたが、答えてくれなかった。朝六時半、新聞の号外が出て、シンガポールに住む人々全員が戦争がはじまったことを知らされた。八時すぎ、日本人の男ばかり六人が連れてこられ、拘置された。どうやら、男性は男性だけ、女性は女性だけ、別々に拘置されている様子だった。
朝八時半、中央警察署に移動させた。二千人くらいいるように感じた。身体検査をされ、持ち物を調べられた。現金、時計、鏡、鍵、装飾品などを没収された。現金や時計などの金目の物の多くは、マレー人やインド人の警官の財布やポケットに移動したようだ。要領のいい人は、現金や貴重品をふんどしの中に隠して没収を免れたが、川内青年はどうやっても「着のみ着のまま」でしかなかった。
九時半、数隻の艀(はしけ)に分乗させられて、曳き船に引かれて、丸一昼夜かけてポート・セッテンハム(現在のポート・クラン)に上陸した。艀の中は狭く、飲食はもちろん、用便もできない状況で、全員が垂れ流しで悪臭がたちこめ、目的地も何時着くかも知らされない不安のときをすごした。
ポート・セッテンハムにはマレー半島で拘束された日本人たちもいて、シンガポール組と合わせると三千人くらいいるように思えた。インドからの移民たちの検疫に使っていた隔離棟に収容された。そこでは朝と夕にご飯が出された。毎食、アヒルのゆで卵だけがおかずだった。塩も醤油もなく、味気ない食事だった。
ポート・セッテンハムはマラッカ海峡側の重要な港だったこともあって、収容されている二十日間に幾度も日本軍航空機の爆撃があった。収容所を空爆されないようにみんなで相談して、収容所の庭に、白いシーツを四角に敷いて、その上に女性の赤い腰巻きを丸く配置して日の丸を作って、日本人が収容されていることを知らせた。このおかげで、収容所は一度も空爆を受けなかった。
十二月末、川内青年ら勾留された日本人は艀に乗せられ、ふたたびシンガポールに移された。現在のシンガポール国際空港のあるチャンギの刑務所だった。行くときと同じ状態だったが、一昼夜という時間が分かっていたので気分的には楽だった。女性たちの一部は汽車で移送された。これは「レディーファースト」の国イギリスの粋な計らいだったようだ。
この間、日本軍は快進撃をつづけていた。マラッカ海峡の北の要塞ペナンは日本軍による連日の空爆で、十二月十八日にはイギリス兵もインド兵も撤退し、陸軍による攻撃は行われないまま、十九日に占領した。十二月三十一日には、主力部隊はイポーを攻略し、クアラルンプールの北およそ100Hに達していた。
十七年一月に入っても日本軍の勢いは衰えず、一月三十一日には一部の部隊はシッがポールの対岸、ジョホールバルに到達した。
日本軍のシンガポール総攻撃がはじまる一週間前の一月二十五日、日本人捕虜たちは十隻あまりの客船に乗せられ、二隻の駆逐艦に護られてインドに向けて出港した。川内青年の乗せられた船の船倉・ハッチには約四百人の日本人が、客室や上甲板にはイギリス人引揚者が乗っていた。航行中、二隻の船が日本の潜水艦によって撃沈させられたが、幸運なことに、二隻とも日本人の捕虜は乗っていない船だった。この攻撃を受け、船隊はバラバラになり、一部の船はオーストラリアやインドネシアに向かって逃げたという。川内青年の乗った船も、日本軍の攻撃を避けるために通常の航路から外れたりしたために、四、五日でつくはずのボンベイ(現在のムンバイ)まで十数日かかり、二月七日にやっとの思いで到着した。
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