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その四
戦後のマレーシアの日本人社会の形成に功績 |
| 日馬プレス 渡邉明彦 |
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昭和17年1月25日、日本軍はすでにジョホールバルに集結し、シンガポール島攻略作戦を展開していた。川内光治さんたち日本人は、シンガポールに最後まで残留していたイギリス人引揚者とともに十数隻の客船に乗せられ、二隻の駆逐艦に護衛されてシンガポールを出港し、イギリスの植民地であり、日本軍の影響のないインドに向かった。客室や上甲板にはイギリス人が、日本人はハッチに押し込められた。
出港後、日本軍の潜水艦の攻撃で二隻が沈没した。運よく日本人の乗っていない船だった。この攻撃で船団はばらばらになり、インドネシアに向かって逃走した船もあれば、連合国であるオーストラリアに逃げた船もあった。川内さんの乗せられた船は攻撃を避けるために通常の航路を航行しなかったのか、4,5日でボンベイ(現在のムンバイ)に到着するはずが10日あまりかかり、2月7日に到着した。船内での食事はご飯や鰯の缶詰などで、捕虜に対するものとすれば、上等なように感じた。
ボンベイに上陸した日本人捕虜たちはデリー郊外のプラナキラ城に収容された。城とはいうものの、城内ではなく、石畳の上に張られた単身者は四人用天幕(テント)や六人用天幕に収容され、家族連れや女性用は十二人用の大型天幕が使われた。ベッドは木枠に網を張っただけの、下から風が吹き上げてくる情けないものだった。二月のデリーは一年中でもっとも寒く、摂氏5℃くらいまで冷え込む。捕まったときのシャツ一枚だけの川内さんにはひじょうに寒く、夜は眠れない日がつづいた。寒さをしのぐために身体を暖めようと、走ったりして体を動かしても、一時間くらい寝ると目が覚めてしまった。「寝る前に冷水につかったらどうだ」という者があって試したら、五時間ぐらい熟睡できるようになった。それでも、寒い夜に、水風呂につかるには相当に勇気がいることだったという。
プキナキラ城の収容所にはインドで働いていて交流された日本人の商社員たちもいた。インド組みは荷物のもちこみが許されたこともあって、三井物産、三菱商事、日本郵船、大阪商船、横浜正金銀行(東京銀行から東京三菱銀行、三菱UFJ銀行と名前が変わっています。)など大企業の駐在員たちは、大量の衣料など生活必需品をトラックに積み込んでもってきた。もちろん、こうした品々は着の身着のままで連れてこられたシンガポールやマレーからきた同僚たちにも配られた。川内さんのような自営業の人々はうらやまくてならなかった。
幸いにも寒さは一月ほどで終り、一転して暑い季節になった。朝夕は15,6度で快適なのだが、昼すぎには55℃を超える灼熱地獄だった。川内さんのインド抑留中の最高気温は61℃、日本人には信じられない暑さだった。
ポートセッテンハムでの抑留から3ヶ月あまり、日本人捕虜たちは生野菜不足、栄養に偏りによるビタミンB欠乏による急性脚気になる人がふえた。しばらくして病状が急速に悪化し、まず、しゃべることができなくなり、次に手足が麻痺し、その発作ののち数時間で心臓が止まってしまった。同じ症状の病死者がつづいたことに驚いた収容所では遺体を解剖し、死因をしらべた。ビタミンB欠乏による心臓疾患だった。約160名が亡くなった。ある朝気がつきと、前日の夜に話をしていた収容所仲間が、隣のベッドで冷たくなって横たわっていたこともあった。
それでも、旧日本軍がタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の敷設工事に駆り出されたイギリス兵やオーストラリア兵捕虜を収容していたカンチャナプリのクワイ川鉄橋脇に設置されている戦争博物館に記録された捕虜に供された食事や待遇に比べれば、ましだったのではないだろうか。日本軍の捕虜に対する考え方は「虜囚の辱めは死に勝るもの」であり、恥知らずの臆病者に対する処遇だった。一方の連合国軍は「捕虜は(自軍と)勇敢に戦った英雄」として優遇した。川内さん等は一般市民だから非戦闘員としての最低限の人権を認めていたのだろう。
収容所ではビタミンB欠乏症対策として麦を配給してきた。しかし、脱穀していない麦は先がとがっていてとても口にできる代物ではなく、皆で知恵を出し合って、麦茶を大量につくり飲むことにした。食事に出てくる野菜は玉ねぎだけだった。葉の青い野菜は皆無だったので、玉ねぎを植えて青い芽を摘んで味付けして食べた。
デリーに収容されていた日本人にとって、イギリスによる処遇よりも、インドの気候、過酷な自然がこたえた。あまりの暑さに、自然に生きる小鳥さえも、木の枝に留まったとタンに気を失い地面に落ちてくることもしばしばだった。水分不足が原因のようだった。これは、子供たちにとってはまたとないご馳走となった。火に炙られて焼き鳥になった。
インドの人々も、アラブの人々も肌を露出せず、長袖の着物を着ている。頭も顔も覆っていることが多い。室内に閉じこもりじっとしている者も多い。それは、熱気が肌を直撃するのを防ぐためであり、時折、やってくる砂塵を防ぐためでもあった。砂塵のすさまじさは恐ろしいほどだった。砂塵の前触れのうなりが聞こえると、蚊帳に入って目をつぶり、鼻と口を手ぬぐいで覆って、通りすぎるのを待つ以外に方法がなかった。約30分で砂塵は通りすぎていく。髪の中はもちろん、手ぬぐいを通りぬけた細かい砂が鼻や口の中でザラついていた。
収容されて半年後の昭和17年8月頃、806人が交換船竜田丸で第一回目の帰国ができることになった。収容所の幹事は大手企業の支店長などの幹部たちだった。帰国者の名簿に記載された名前は、大手企業の駐在員が優先されていた。収容所司令官の決定という発表だったが、大手企業幹部が恣意的に決めたのは明らかだった。開戦前の引き揚げ船の乗船順位をめぐって、同じことがシンガポールでもあった。その記憶もあって、大手企業の駐在員たちと、自営業などの若者たちの間が一触即発の状況になった。「あわや暴動」というところまでいって、残留組の中の人が説得して事無きを得た。第二次の交換船の人選も行われたが、交換船はやってこなかった。
交換船に乗ることができた人々が幸運だったというわけではないことは、あとになって知った。シンガポールで日本へ帰還する人々とシンガポールで下船する人々とに分かれた。シンガポール組は日本軍への協力を要請された。日本軍の勝利に沸いている間はよかったが、敗色が濃くなり、やがて敗戦を迎え、ふたたび悲惨な体験をした人もいた。また、日本に帰った人の多くが、平穏な生活を送ることができなかった。空襲におびえ、焼夷弾に追われ、家族を失い、自からも生命を失った者もいる。応召され、戦場に送られた人もいただろう。残された川内さんたちは、少なくとも生命の安全だけはあった。 |
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