その五
日本人捕虜インド抑留の記録
日馬プレス 渡邉明彦
 
 日本人捕虜のインド抑留に関しての資料を紐解いてみる。
 シンガポール総領事館の嘱託だった篠崎護はスパイ容疑逮捕されたが日本軍のシンガポール占領の翌日、1942年2月6日釈放され、た。その篠崎が同月19日に外務大臣あてに出した報告には、
 
―― 昨年十二月八日開戦に際し午前四時暁暗を衝いて邦人住宅の一斉検挙を行ひたり邦人は一先つ市内のローカルプリズン・警察留置場によくりゅうせられたる後漸次チャンギ刑務所に連行留置したるが大部分は手回品用トランク一個を携帯せるのみなりき。獄卒より聞き得た所に依れば新嘉坡に於ける収容邦人数は、婦女子を合し総員一千百四十名にして所在不明九名なりと、次いで婦女子はセント・ジョーンズ島の移民収容所に移し男子は全部チャンギ刑務所に収容、本館員は十二月二十二日他の囚人と共に新嘉坡監獄特別禁固室に移されたり、移動の際一部邦人の姿を認めたるに依り彼等を鼓舞日本人たる矜持を持するやう激励したるに彼等は本館員の姿を認め何れも悲壮なる中にも気を得たるを喜び万歳を叫びたり、岡本総領事以下(中略)七館員は十二月十一日チャンギ監獄内白人収容所に移され(中略)十二月二十三日、総員七名印度に押送(「後送の意か」との但し書きあり)せられたり。次いで一月七日半島方面より合流したる邦人を合し約一千六百名(或いは千八百名とも称し居りたり)はセレター軍港を出発古倫母(コロンボ)へ後送二週間後英人は邦人セイロン島着を正式に発表せり。――
 と書かれている。 抑留者についての記録では、8日に逮捕され、同日の夕方男子764名がポート・セッテンハムに向けて出港し、その後、マレー半島などから送られてきた人たちを合わせて15日には1422名になったと書かれている。12月26日にポート・セッテンハムを出港、27日にシンガポールに到着した。
 インドに抑留される約650名の第一陣がデリーに送られたのは1月6日、18日にカルカッタに到着し、汽車に乗せられてデリーについたのは21日だった。24日には998名、25日には800名(一説では916名)が出港した。デリーの収容先は『プラタキア(Purata Quila)城』だった。
 インド政庁にはシンガポールとマレー半島以外のビルマ、セイロンからも日本人収容者が送られてきた。総数2600名。インドネシアから送られてきたドイツ人収容者は2400名。インド政庁はニューデリーに日本人収容者のための暫定収容所(これがプラタキア城?)が設置され、デカン高原のデオリ(Deoli)に2700名収容所を建設することになった。
 プラナキタ城の収容所を訪れた赤十字国際委員会の報告では、収容されている日本人抑留者は男子1841名、ジョし727名、子供247名の計2815名(うち、タイ人が4名)だった。マラヤ、シンガポール、ボルネオから2598名だった。プラナキタは「気候は乾燥夏季は極めて暑し現在日陰の最高気温は約三十九度なり」とある。
 抑留者の代表は食事に魚をふやして欲しいと養成したが、報告書には記載されていない。また、赤十字国際委員会訪問の前夜、激しい豪雨に見まわれた収容所は泥水の池のようになっていたが、そのことも報告されていない。待遇は土人中にても最下等のものにて
 1942年8月に日本とイギリスの間で抑留者の交換交渉が行われた。昭南島という日本語名をつけられたシンガポールを占領する日本軍は、交換の第一優先順位を外交官とその家族とし、ついで、「公吏その他官吏に準ずべき者、及び公共団体から派遣されたもの、「新聞記者」、「商社及び銀行の支店員、代表的在留民」、「宗教家、学者、学生」、「婦女子」、特別の自由ある者」、これにその家族と従者と書かれている。
 商社員、銀行員、新聞記者、知識人が優先されていた。プラナキタから交換されたのは720名で男子484名、女子171名、16歳以下の子供65名だった。
 720名は8月6日に抑留所を離れ、13日にボンベイを出港、モザンビークのロレンソマルケス(現在のマブート)には27日に到着した。720名は交換船龍田丸に乗り換え、9月2日に出港し、9月16日にシンガポールに到着した。
岡本季正総領事がロレンソマルケスから日本の外務省に打電したのは、ロレンソマルケスに到着するまでの間に銭中で名の死者が出たことと、プラナキタ収容所の劣悪な環境についてだった。「(ラナキラ収容所に抑留されている)邦人はテント生活を為し居るも待遇は土人中にても最下等のものにて随って極度の栄養不足に陥り居り衛生設備又甚だ悪く赤痢流行し蔓延しつつあり目下患者五十名なるが医療行き届かず前途憂慮に堪えず」という内容だった。
イギリスのアジア戦略―キーワードは「アヘン」
 マレー半島・シンガポールと同様に、イギリスの統治下にあったインドは1639年、イギリスが東海岸のマドラスを獲得し、要塞を築いてインド支配と東西交易の根拠地としたことに発する。1661年にはボンベイ(現在のムンバイ)がイギリス領になり、そこに要塞が築かれた。1696年カルカッタに要塞を構築した。1757年、ベンガル(現在のバングラディシュ周辺)地方の領有をめぐって、フランスとのプラッシーの戦いに勝利したイギリスは、ダッカなどに拠点を設け、内陸部との交易にも精を出した。綿織物、絹織物、砂糖、硝石などが産出された。イギリスは毛織物の生産国だったので、安価で着心地のいい綿織物の進出に激しい抵抗があった。しかし、18世紀にはいるとイギリス国内でも綿織物が盛んになり、さらに紡績機械が発明され、改良され、綿織物産業はは隆盛の一途をたどった。
18世紀、インドを支配していたムガール帝国は内政の失敗と、各地で起こった氾濫によって急速に勢力が衰えだした。イギリスのインド支配ははじめは東インド会社に任されていた。(ナポレオン戦争後、東インド会社はマレー半島のペナン、シンガポール、マラッカにも拠点をおいた。)18世紀以降、中国(清)の広東貿易にも参入、1841〜42年にアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。
 産業革命による自由主義の台頭によって東インド会社の利権の独占は非難され、1858年のインド大反乱によってインドの支配権をヴィクトリア女王に返還した。
 東インド会社の植民地統治の手段は徹底した愚民政策と民族隔離政策、そしてアヘンによる搾取だった。そのアヘンはインドで生産されていた。東インド会社はイギリスの綿製品をインドにもちこみ、インドでアヘンを得て清にもちこみ、対価として得た銀をイギリスにもちかえるという三角貿易だった。なぜ、銀かというと、清からの茶の輸入により銀の流出が大量になったためだという。
 マレー半島ではスズ鉱山で働く中国人労働者に払った給料を、アヘンを購入させることで回収していた。アヘンを純白で最高品質の麻薬に精製する技術は中国人自身が改良に改良をかさねたものだったが、アヘンの吸引を好む当時の中国人の性癖を利用した狡猾で悪意に満ちた植民地支配の手法だった。
 アヘンの蔓延に手を焼いた清は、林則徐を広東に派遣し、外国人商人から押収した密輸アヘンを2万箱を海水にひたして石灰をかけ焼き捨てた。イギリスはアヘン輸入禁止の誓約書へのサインを拒否し、戦争も辞さずと構えた。イギリス議会は出兵を決定し、世界史上、もとも醜悪下劣な動機による戦争がはじめられた。イギリス艦隊は天津までせまり、清は降伏した。南京条約で香港の割譲と上海など5港の開港を認めた。アヘンは、その後も送りつづけられ、1880年にピークに達した。「眠れる獅子」といわれていた清(中国)が実際には「病める豚」だったと皮肉られたが、イギリスの卑劣な行為は思いのほか、非難する人は少ない。      
 
 
     
 
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