収容所でのことは柳原和子著『在外日本人』の中に詳しく川内光治先生のことが書かれている。
御手洗さんが川内先生から直接聞いた話では、」捕虜の中にはいろいろな職種の人がいた.建具士、左官、大工、農学博士、歯科医もいた。農業従事者、船員、金細工士、鉄鋼所勤務、造船所で働いていた人、機械工場で働いていた人、建築設計や内装設計をしていた人、数えればきりがないほどいろいろな職業の人々が一緒に捕虜になっていた。
捕虜収容所で時間を紛らわすために、いろんな人がいろんなものを作っていた。まず、建具士が花札を作りった。花札で時間を紛らわすために作ったものではあったが、なかなかの出来映えだった。しかし、紙質がよくなかったので長持ちはしなかった。花札独特の絵がひじょうによく描かれていたので、収容所の所長がそれを見て気に入り、所長は手土産を持ちやってきて花札をお金を払って購入したいと申し出て、きちんとお金を払って買っていったと、川内先生は懐かしく思い出していた。このことは捕虜の間でひじょうな驚きをもって伝わっていった。
それから麻雀の牌を大工さん建具士さんが力を合わせて作った。竹を削って作ったものだったが、これもひじょうによくできた麻雀牌でした。これもまた、司令官がじきじきにやってきて麻雀牌を買いにきたという。このときは、手土産として、砂糖、甘味類.タバコなどと過分にもってきてくれたという。また、麻雀卓も大工さんたちが作った。これもまた、みごとな出来映えだったという。卓の表面は、牌のすべりがよいように、陳列台の上に敷いてあった布とか旗の切れ端を丁寧につなぎあわせて敷いてあったそうだ。もちろん、点棒(点数のやり取りにつかう)もまったく日本のものと同じように作られていた。それを確認した司令官は、ほんとうに喜んで帰っていったという。
収容所自体は劣悪な環境ではあったけれど、収容所長も司令官も、日本の文化というか、職人の作品を芸術的だと高く評価してくれたのだろう。その意味では、インドに抑留された人々は不幸中にわずかな光明があったということだろう。
日本人の捕虜収容所は仲間割れもなく、内輪喧嘩もなく、整然と皆が生活していた。
しかし、野菜が不足することが多く、栄養の偏りによって病気になり、死亡するものもあったので、捕虜仲間の農学博士が「池の周りに生えている植物は、一応、ぜんぶ食べられる」と言ったので、おいしいとか、まずいというのは別にして、たべることにした。作業の帰りなどに採集した植物を農学博士に見せて、「これはいける」、「これは食べられない」と教えてもらった。農学博士のおかげで、ずいぶん、野菜不足が解消されたという。それでも、収容所に申し出て種を分けてもらい、畑・菜園を作り、野菜を栽培することにした。生きること、健康でいることに皆が力を合わせていた。
収容所は男女別々に暮していた。そこで日本人の若い男たちは週末になり、警備がうすくなった隙をついて、日本人女性が収容されている収容所にしのびこんでいった。まず、鉄条網の間を縫ってかなければならない。男たちは洋服を鉄条網の向こう側に投げておいてから、下着一枚で巧みに鉄条網の間を潜りぬけていった。もちろん、昼の間に監視の目を盗んでは、鉄条網に身体が通れるほどの空間を作っておいてあった。女子収容所への侵入だけが収容所生活での唯一のたのしみだった。
とはいえ、いつまでもばれないということではなかった。ある時期になると、収容所側にばれていた。だからといって、止めるわけでもない。「日本男児たるもの、これしきのことだ引っ込んでいられるものか」と、こんどは鉄条網の下に穴を掘っていったという。トンネルを掘ったのではなく、鉄条網の下に一メートルくらいの幅でお椀形に掘ったらしい。監視兵にばれないように、ふだんは板をかぶせて土を上にかぶせて草などもおいて分からないようにしたという。川内先生は「これはかなり効果があった」と言っていたという。しかし、これも最後にはばれてしまった。
この鉄条網突破作戦のおかげで、川内先生は奥さんのしのぶさんと知り合うことができた。
イギリスのアジア戦略―キーワードは「アヘン」
マレー半島・シンガポールと同様に、イギリスの統治下にあったインドは1639年、イギリスが東海岸のマドラスを獲得し、要塞を築いてインド支配と東西交易の根拠地としたことに発する。1661年にはボンベイ(現在のムンバイ)がイギリス領になり、そこに要塞が築かれた。1696年カルカッタに要塞を構築した。1757年、ベンガル(現在のバングラディシュ周辺)地方の領有をめぐって、フランスとのプラッシーの戦いに勝利したイギリスは、ダッカなどに拠点を設け、内陸部との交易にも精を出した。綿織物、絹織物、砂糖、硝石などが産出された。イギリスは毛織物の生産国だったので、安価で着心地のいい綿織物の進出に激しい抵抗があった。しかし、18世紀にはいるとイギリス国内でも綿織物が盛んになり、さらに紡績機械が発明され、改良され、綿織物産業はは隆盛の一途をたどった。
18世紀、インドを支配していたムガール帝国は内政の失敗と、各地で起こった氾濫によって急速に勢力が衰えだした。イギリスのインド支配ははじめは東インド会社に任されていた。(ナポレオン戦争後、東インド会社はマレー半島のペナン、シンガポール、マラッカにも拠点をおいた。)18世紀以降、中国(清)の広東貿易にも参入、1841〜42年にアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。
産業革命による自由主義の台頭によって東インド会社の利権の独占は非難され、1858年のインド大反乱によってインドの支配権をヴィクトリア女王に返還した。
東インド会社の植民地統治の手段は徹底した愚民政策と民族隔離政策、そしてアヘンによる搾取だった。そのアヘンはインドで生産されていた。東インド会社はイギリスの綿製品をインドにもちこみ、インドでアヘンを得て清にもちこみ、対価として得た銀をイギリスにもちかえるという三角貿易だった。なぜ、銀かというと、清からの茶の輸入により銀の流出が大量になったためだという。
マレー半島ではスズ鉱山で働く中国人労働者に払った給料を、アヘンを購入させることで回収していた。アヘンを純白で最高品質の麻薬に精製する技術は中国人自身が改良に改良をかさねたものだったが、アヘンの吸引を好む当時の中国人の性癖を利用した狡猾で悪意に満ちた植民地支配の手法だった。
アヘンの蔓延に手を焼いた清は、林則徐を広東に派遣し、外国人商人から押収した密輸アヘンを2万箱を海水にひたして石灰をかけ焼き捨てた。イギリスはアヘン輸入禁止の誓約書へのサインを拒否し、戦争も辞さずと構えた。イギリス議会は出兵を決定し、世界史上、もとも醜悪下劣な動機による戦争がはじめられた。イギリス艦隊は天津までせまり、清は降伏した。南京条約で香港の割譲と上海など5港の開港を認めた。アヘンは、その後も送りつづけられ、 1880年にピークに達した。「眠れる獅子」といわれていた清(中国)が実際には「病める豚」だったと皮肉られたが、イギリスの卑劣な行為は思いのほか、非難する人は少ない。
対戦国の捕虜の取り扱いについては、日露戦争や第一次世界大戦の際の日本の対応は1899年(明治32年)の「ハーグ陸戦規則」などの国際条約を遵守して人道的にあつかった。しかそ、日本軍の意識のなかには「捕虜になるのは恥」という考えが根強かった。
1929年(昭和4年)に日本政府が締結した「ジュネーブ条約」には、捕虜の人道的待遇が具体的に書かれていた。しかし、軍部は「帝国軍人の観念からすれば俘虜たることは予期せざる」として反対し、条約の批准はできなかった。上海事変で捕虜になった少佐が、停戦後に自決したときには「帝国軍人の鑑(かがみ)」とほめそやした。
太平洋戦争を間近にした1941年1月、東条英機陸軍大臣名で「戦陣訓」がだされた。そこには「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず.死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」とある。「捕虜になるくらいなら、死ね」という意識は帝国軍人のみならず、好むと好まざるとに関わらず、一般国民にも浸透していった。太平洋戦争末期、日本軍兵士の多くがアジア、太平洋各地で「玉砕」した。サイパン島では一般の国民がのちにバンザイ岬と呼ばれた絶壁から身を投げた。捕虜となり、生き残れば、家族もろとも非国民と呼ばれ後ろ指をさされる時代だった。
満州事変以降、中国兵の捕虜をゲリラあるいは「匪賊」としてあつかうようになった。処分は司令官に一任された。連合国軍のアメリカ人、イギリス人兵士などの監視には当時は日本人とされていた朝鮮人兵士や台湾人兵士があてられていた。戦後、彼らのなかから多くのB,C級戦犯が生まれた。
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