前々号には下記のように書いた。
――岡本季正総領事がロレンソマルケスから日本の外務省に打電したのは、ロレンソマルケスに到着するまでの間に銭中で名の死者が出たことと、プラナキタ収容所の劣悪な環境についてだった。「(ラナキラ収容所に抑留されている)邦人はテント生活を為し居るも待遇は土人中にても最下等のものにて随って極度の栄養不足に陥り居り衛生設備又甚だ悪く赤痢流行し蔓延しつつあり目下患者五十名なるが医療行き届かず前途憂慮に堪えず」という内容だった。――
デリー郊外のプラナキラ城の収容所について、抑留者された人々は「宿舎は畳の上に張られたテントで、粗末なベッドしかなかった。もっとも寒いときは5℃、もっとも暑い季節には日中55℃を越す猛暑だった。着の身、着のままで抑留された人たちにとってはひじょうに厳しい環境だった」と言います。「抑留中の最高気温は61℃だった」と語っている人もいます。野菜不足によるビタミンB1欠乏によるべリベリ(脚気)による死亡や赤痢、結核で死ぬ人も多かった。
翌年2月、デカン高原のデオリ収容所に移されたが、デオリ収容所は木造で、ベッドは
空き地での野菜の栽培も許され、衣類も支給されたという。プラナキラ城の収容所のときと同じベッドだったが、マットレスが一枚支給された。ただ、ここでもマラリアや赤痢の病人が絶えなかったという。
最初にポート・セッテンハムに収容されて以来、百数十名の日本人が死んだ。川内先生の記憶では、死者の多くが若い人たちだったという。収容所で生活するための薪割りのような雑用や労働を、若い人たちは自ら買ってでて引き受けた。状況は改善されたとはいえ、毎日同じメニューでは栄養は偏り、栄養失調状態であることには変わりはない。単身で生活している若者たちの体調の変化に気を配ってくれる人はいない。日を重ねるたびに、疲労やじわじわと身体を蝕み、栄養の偏りが体内のバランスを崩していく。そして、ある日突然、発作に襲われ、翌朝、冷たくなって発見される。「若い人が死んでいくのを見るのは、悲しいことでした」とつぶやいた。
◆生活するためのものや食糧を作る自由があった
しかし、そんな環境の中でインドに抑留された日本人たちは生きるために自分たちで様々な活動をしていた。花札や麻雀だけでなく、抑留された人たちは生活に役に立つ様々なものを手作業で作り、子供たちのために教科書まで作ったという。
中に、酒を造ろうと思い立った人がいて、酒造りがはじまった。ジャガイモを腐らせて麹(こうじ)を造り、米を蒸して麹を加え、素焼きの水がめに入れて造った。これは見つかると十四日の営巣という懲罰を受ける禁止事項なので、畑に大きな穴を掘り、そこに埋めた。司令官たちは見てみぬふりをしてくれていたようで、工事などに人手が必要なときになると数人が捕まって、営倉に入れられ、使役に駆り出されていた程度だった。
営巣に入れられた人たちの中には、営倉内のベッドの鉄枠(収容所のベッドは木枠)を拘束はされていた。それでも、川内先生たちのように女性とのロマンスをもとめるささやかな自由があった。野菜作りの要望も受け入れてもらったので、キュウリ、さつま芋、トマト、カボチャなどを栽培して、新鮮な野菜を料理してビタミンB欠乏症を自分たちの手で解消することができた。収容所では自炊をしていた。支給された鍋やカマ、やかん、包丁で料理した。肉は100人につき山羊1頭の割合で配給されたが、山羊は肉の部分が少ないのでスープの出汁にするか、大きなサイコロの大きさの肉を分け合って食べた。困ったのはお米で、支給されるインド米は雑穀やワラ、小石などが混ざっており、米粒の中から余計なものを取り出さないとご飯も焚けなかった。
デオリ収容所では夫婦や子供連れの家族は一つの部屋を与えられた。単身者、独身者の女性は100人程度。“からゆきさん”や日本料理店の仲居さんや芸者さん、外国人についてきた女性などがいた。
単身の男性は約1200人いた。一番多かったのはマレー半島おきで働いていた漁師で沖縄出身者がもっとも多く半数にのぼり、和歌山、香川、愛媛などの出身者が多かった。最初のうちは、男性棟と女性や家族棟は離されていた。女性が近くにいるのに姿も見えないということで、気性の荒い独り者の男たちの間でけんかがふえ、収拾がつかなくなった。代表者が司令官のところに行き、男性棟を女性棟が見える場所に移してもらった。そして、時間を決めて交流できるようにしてもらった。それからはけんかはめだって減ったという。
そして、日本の文化を認めてくれる司令官たちがいた。それは収容されていた日本人たちにとっては、少なからぬ安心感につながった。
そして、そこには日本軍が第二次世界大戦中に敵である連合国軍捕虜に課したような過酷な強制労働は行われなかった。
捕虜収容所の環境は劣悪だったが、「待遇は土人中にても最下等のものにて」というほど酷いものだったかどうか。川内先生の記憶にも、その他の抑留者の証言からも、現在でもインドの最下層のハリジャン(神の子達)、または不可触民と呼ばれるカースト制度の最下層のさらに下の人々の生活レベル以下だったとは考えられない。
ただ、いかにイギリスといえども、インドでできることには限界があったろうし、当然、アジア人蔑視の思想がなかったとは思えない。川内先生によれば、現実に近くに収容されていたドイツ人捕虜の待遇は一等国に対するもので、パンやバター、チーズ、肉類の支給があり外出も監視にあたっているインド兵が遠慮するほど自由だった。同じように近くにイタリア人の収容施設があったが、イタリアは二等国扱いでドイツ人よりは待遇が悪かったが、日本人などよりは上だったという。日本人やインドネシア人、タイ人などは三等国扱いだった。
それでも、日本軍が捕虜に与えた環境に比べれば、数段ましだったように感じる。
◆日本軍の捕虜についての考え方。捕虜の虐待
対戦国の捕虜の取り扱いについては、日露戦争や第一次世界大戦の際の日本の対応は1899年(明治32年)の「ハーグ陸戦規則」などの国際条約を遵守して人道的にあつかった。しかそ、日本軍の意識のなかには「捕虜になるのは恥」という考えが根強かった。
1929年(昭和4年)に日本政府が締結した「ジュネーブ条約」には、捕虜の人道的待遇が具体的に書かれていた。しかし、軍部は「帝国軍人の観念からすれば俘虜たることは予期せざる」として反対し、条約の批准はできなかった。上海事変で捕虜になった少佐が、停戦後に自決したときには「帝国軍人の鑑(かがみ)」とほめそやした。
太平洋戦争を間近にした1941年1月、東条英機陸軍大臣名で「戦陣訓」がだされた。そこには「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず.死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」とある。「捕虜になるくらいなら、死ね」という意識は帝国軍人のみならず、好むと好まざるとに関わらず、一般国民にも浸透していった。太平洋戦争末期、日本軍兵士の多くがアジア、太平洋各地で「玉砕」した。サイパン島では一般の国民がのちにバンザイ岬と呼ばれた絶壁から身を投げた。捕虜となり、生き残れば、家族もろとも非国民と呼ばれ後ろ指をさされる時代だった。
満州事変以降、中国兵の捕虜をゲリラあるいは「匪賊」としてあつかうようになった。処分は司令官に一任された。連合国軍のアメリカ人、イギリス人兵士などの監視には当時は日本人とされていた朝鮮人兵士や台湾人兵士があてられていた。戦後、彼らのなかから多くのB,C級戦犯が生まれた。
日本軍の捕虜の取扱いについては、フィリピン攻略の際に炎暑の中行軍させられた連合国軍捕虜六万四千人のうち、アメリカ兵捕虜千二百人とフィリピン人捕虜一万六千人が疲労や飢え、病気などで死んだ「パターン半島死の行進」が知られている。マレーシアでも、ボルネオのジャングルの中、約150マイル(=240キロ)をオーストラリア兵捕虜千八百人、イギリス兵六百人をサンダカンからラナウに移動させ、到着時に生きていたもの数人という「死の行進」を行っている。
そして、もっともよく知られているのは、インパール作戦を遂行するための兵士や兵器、食糧を補充するためにタイとビルマを結ぶ「泰緬鉄道」の敷設工事に駆り出されたオーストラリア兵とイギリス兵など連合国軍捕虜六万1千人や東南アジア各地からあつめられた労働者七万人への扱いを描いた映画『戦場に架ける橋』、タイ、カンチャナプリのクワイ川鉄橋の建設工事での様子が知られている。連合国軍捕虜のうち一万二千人が死に、棟なんアジア出身の労働者のうち三万人が死んだ。「枕木一本、人柱一本」と呼ばれる過酷な労働だった。
オーストラリア人の生存者は「木の根っこを食べさせられた」と食糧事情の悪さを訴えている。どうやら「ごぼう」のことらしいが、日本人は「ごぼう」は活力を生む食材でも、欧米人には土臭い木の根にしか見えない。そうした生活習慣上の誤解もあったようだが、現実には同じものを同じくらい食べていても、幾度も幾度も飢饉を経験してきた東北地方出身の百姓の次男、三男の食べ物、食べる量と、肉を大量に食べるアングロサクソンの食生活では比較のしようがない。他国の、まして「鬼畜米英」と呼んでいた敵国の生活習慣に日本軍が関心をもつわけがない。「俺たちも同じものを食べている」と言っても、イギリス兵やオーストラリア兵から見れば、「最悪の食糧事情」と言われてもやむを得ないだろう。
◆ イギリスのアジア戦略―キーワードは「アヘン」
マレー半島・シンガポールと同様に、イギリスの統治下にあったインドは1639年、イギリスが東海岸のマドラスを獲得し、要塞を築いてインド支配と東西交易の根拠地としたことに発する。1661年にはボンベイ(現在のムンバイ)がイギリス領になり、そこに要塞が築かれた。1696年カルカッタに要塞を構築した。1757年、ベンガル(現在のバングラディシュ周辺)地方の領有をめぐって、フランスとのプラッシーの戦いに勝利したイギリスは、ダッカなどに拠点を設け、内陸部との交易にも精を出した。綿織物、絹織物、砂糖、硝石などが産出された。イギリスは毛織物の生産国だったので、安価で着心地のいい綿織物の進出に激しい抵抗があった。しかし、18世紀にはいるとイギリス国内でも綿織物が盛んになり、さらに紡績機械が発明され、改良され、綿織物産業はは隆盛の一途をたどった。
18世紀、インドを支配していたムガール帝国は内政の失敗と、各地で起こった氾濫によって急速に勢力が衰えだした。イギリスのインド支配ははじめは東インド会社に任されていた。(ナポレオン戦争後、東インド会社はマレー半島のペナン、シンガポール、マラッカにも拠点をおいた。)18世紀以降、中国(清)の広東貿易にも参入、1841〜42年にアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。
産業革命による自由主義の台頭によって東インド会社の利権の独占は非難され、1858年のインド大反乱によってインドの支配権をヴィクトリア女王に返還した。
東インド会社の植民地統治の手段は徹底した愚民政策と民族隔離政策、そしてアヘンによる搾取だった。そのアヘンはインドで生産されていた。東インド会社はイギリスの綿製品をインドにもちこみ、インドでアヘンを得て清にもちこみ、対価として得た銀をイギリスにもちかえるという三角貿易だった。なぜ、銀かというと、清からの茶の輸入により銀の流出が大量になったためだという。
マレー半島ではスズ鉱山で働く中国人労働者に払った給料を、アヘンを購入させることで回収していた。アヘンを純白で最高品質の麻薬に精製する技術は中国人自身が改良に改良をかさねたものだったが、アヘンの吸引を好む当時の中国人の性癖を利用した狡猾で悪意に満ちた植民地支配の手法だった。
アヘンの蔓延に手を焼いた清は、林則徐を広東に派遣し、外国人商人から押収した密輸アヘンを2万箱を海水にひたして石灰をかけ焼き捨てた。イギリスはアヘン輸入禁止の誓約書へのサインを拒否し、戦争も辞さずと構えた。イギリス議会は出兵を決定し、世界史上、もとも醜悪下劣な動機による戦争がはじめられた。イギリス艦隊は天津までせまり、清は降伏した。南京条約で香港の割譲と上海など5港の開港を認めた。アヘンは、その後も送りつづけられ、1880年にピークに達した。「眠れる獅子」といわれていた清(中国)が実際には「病める豚」だったと皮肉られたが、イギリスの卑劣な行為は思いのほか、非難する人は少ない。
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