日本の敗色が濃くなるにつれ、「神国日本が負けるわけがない」と信じている「勝ち組」と、インドで発行されている英字紙のニュースを信じる川内光治先生たち「負け組」とが鮮明に分かれてきた。
そして、昭和二十(1945)年八月十五日、日本政府はボツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。冷静に敗戦を受け止めた人々を「負け組」と表現するのは適切だとは思はない。「日本は負けた」という現実を認識し、次に起こること、やるべきことを考える人たちは「負け組」ではない。明日の日本を考え、復興に向かっていく原動力となる人たちだからだ。
問題は「神国日本は絶対に負けない」と信じ、日本が無条件降伏という形で「敗北を認めたことが信じられない」人たちだ。「日本軍はまだ戦っている」と信じている「勝ち組」の人々は、負けを認めた人々を「非国民」、「軟弱者」と罵倒し、丸太をもつなどして襲撃したりしていた。
これを心配したイギリス人の収容所司令官が、ビルマ戦線で終戦を迎えた第十五の司令官牟田口廉也中将をビルマから呼び寄せ、日本人抑留者全員の前で日本軍の敗戦までの経緯と日本軍の現状について説明させた。牟田口中将は軍服は着ていたものの、軍刀などは身につけておらず、「勝ち組」は将軍の名を語る偽者として、まったく信用しなかった。
牟田口中将は、マレー半島からシンガポールを攻略した第二十五軍第十八師団の師団長だった。シンガポール攻略後にはジョホール州の警備にあたった。マレー半島の警備にあたった日本軍はマラヤ人民抗日軍、華僑抗日軍など抗日ゲリラの制圧にむけて、多くの華僑を拘束し、拷問し、粛清した。このときに罪のない女性や子どもまで惨殺したと言われている。
「生きて虜囚の辱かしめを受けず」、「敵の捕虜になる前に、自決しろ」と何千何万の将兵に訓示してきた軍の最高幹部の一人が、虜囚となって敗北の経緯を語りにくるということが理解できない人がいても不思議はない時代だった幾度も映画やテレビドラマになった小説『ビルマの竪琴』に描かれたビルマ戦線は、悲惨で無残な戦場だったと言われている。ビルマ戦線、インパール作戦を指揮した牟田口中将は、まさに軍国思想の日本の象徴的存在だった。
狂信的な「勝ち組」の人々の言動は日に日に硬化して、司令官の命令でニュースを翻訳して日本人収容者に伝えていた川内先生たちへの激しい憎悪をむき出しにするようになった。川内先生は「勝ち組」の状況を報告し、これ以上翻訳して伝えれば「勝ち組」は暴力をもって「負け組」を制圧してくるだろうと、生面の危険を訴えた。司令官は川内先生を命令に随わなかった罪で拘束され、収容所から離れた刑務所に送った。
刑務所に送られた翌日、第一翼にいた「勝ち組」のメンバーは、他の翼にいた「負け組」を襲うべく終結した。司令官は機関銃で武装したインド兵を翼内に配備し警戒をはじめた。これを見て殺気だった「勝ち組」は集団になって、女性や子どもたちを先頭に立たせて、薪の丸太を手にかざしてインド兵に方に向かっていった。十丁の機関銃から一斉に弾丸が飛びだし、瞬く間に27名が射殺されてしまった。その中に女性が十数名、子どもが三人含まれていた。「勝ち組」を先導した人々の多くは生き残ったという。
川内先生は刑務所に二日間留置されていたので、銃撃があったことは後で知らされた。川内先生がデオリ収容所にもどった日に亡くなった人たちの葬式があった。機関銃で頭を撃たれた遺体を見ると、額にある弾の侵入口はほとんど分からないくらいに小さいのに、弾が抜け出た後頭部を見ると、周りの骨や肉が根こそなくなるほど無残な空洞が残っていたという。女性や子どもの遺体を見るのは悲しくつらく、無傷で生き残った煽動者たち、とりわけ元軍人たちに激しい怒りが込み上げてきた。緊張の日々に耐えきれず情緒不安定になった女性たちと彼女等の子ども、単純に洗脳されてしまう若者たちが踊らされた。その女性たちと子ども、単純な青年たちを盾にして自分たちは後方の安全圏にいて、機関銃を構えたインド兵に向かっていった、元軍人たちの狡猾さ卑劣さを川内先生たち「負け組」は怨んだ。
この事件を機に、「勝ち組」はひっそりとなり影を潜めるようになった。不幸な事件があって諍いは終わった。
「日本が負けたら首をくくって死ぬ」と言っていた煽動者の一人は、日本に帰った後、アメリカ軍に取り入って、アメリカ軍出入りの商売をはじめ羽ぶりをきかせていた。そのたの人たちも似たり寄ったりで、「鬼畜米英」と罵っていた同じ口で、アメリカ軍におべっかをつかうようになった。
悲しい出来事もあったが、うれしいこともたくさんあった。鉄条網をくぐって独身女性のもとにかよっていた独身男性の間に愛が芽生え、そして赤ちゃんが産まれるということがあった。司令官はそれを咎めることはしなかった。三十組の家庭が新しくできた。そして、家族棟に移っていった。
司令官の粋な計らいに皆は感謝した。そして、心からよろこんだ。デオリ収容所で、新家庭もふくめて188人の赤ちゃんが誕生した。不幸にも栄養失調などで病死してしまった160人の人たちの変わりに、それ以上の新しい命が誕生した。
そして、川内先生としのぶ夫人が出会ったのもデオリ収容所。どうやら川内先生の方からのアプローチがあったらしい。このときのことを訊ねるとしのぶさんは「わたしはまだわかったから」と恥ずかしそうにうつむいた。だいぶ年上だった川内先生のほうが積極的だったのだろう。 |