日本のメディアはフジテレビ親会社である日本放送株を大量に取得し敵対的買収を試みて一躍有名になったライブドアの前社長、ホリエモンこと堀江貴文さんを「勝ち組」として時代の兆児に祭り上げた。「金さえあれば人の心も買える」、額に汗することなく、マネーゲームで企業を大きくしていった彼の手法や、ティーシャツ姿でどこにでも行くライフスタイルに日本の若者たちは共感していった。
あのとき、フジテレビの日枝久会長のいかにもサラリーマン社長的雰囲気が「負け組」的っぽかったのが印象的だった。日枝氏は組合活動で鹿内一族の総帥に放逐され、息子の鹿内春雄氏にすくわれ、若くして取締役になった。そして、鹿内宏明氏を放逐して社長になった経歴をもつ。しかし、主家乗っ取りという創業者一族と対峙した豪腕社長の面影はなかった。見方を変えれば、日枝氏自身が人を恩を仇で返すことも善しとする、人の心に泥靴のまま踏みこんでいく「ホリエモン的発想」の持ち主だったようだ。
ホリエモンが東京地検に逮捕されたとたん、悪党に負けていたはずの日枝会長は「正義は我にあり」然とした態度になった。交換条件でフジテレビが取得した「ライブドア株で被った損害はホリエモンのせいだ。フジテレビは粉飾決算をしていたライブドアにだまされた被害者だ」と言い出した。ライブドア株の暴落で数百億円という損害をだした自分の責任は棚に上げて。卑しくも企業の経営者たるもの、だまされて大損害を被ったとしたら、だまされた責任を自覚する。株主に対し、責任の所在を明らかにする。責任回避に躍起になってしまった。
若者を中心に多くの人々がネットを通じてライブドアの株を買った。「ホリエモン」が交流された直後から勝った人々の間から怨嗟の声が上がった。「ホリエモン」の生き方を支持し、「ホリエモン」に日本の未来を感じたからライブドア株を買ったはずなのに、「だまされた。損害を賠償してくれ」は「負け組」というより「負け犬の遠吠え」と言うべきだろう。ギャンブルに負けた、ただそれだけのことだ。誰も同情しない。
状況は違うけれど、「ホリエモン」にせよ日枝久氏にせよ、「勝ち組」の発想とは自己保身であり、いかに自己中心でもあることが分かる。
ところが、小泉政権末期の今となって、小泉改革のせいで「勝ち組」と「負け組」の格差が生じた。日本社会が二極化してきたという。こっちのほうはどうなのだろう。
◆ブラジルとハワイの日系人社会を二分した「勝ち組」と「負け組」
太平洋戦争終了後、「勝ち組」と「負け組」が争いはブラジルとハワイの日本人社会での出来事が知られている。
1908年、最初の移民船笠戸丸から太平洋戦争まで、ブラジルには約27万人の日本人がいた。90%以上の人は永住のつもりはなく、一旗あげて故郷に錦を飾ろうと意気込んで国を出た人たちだった。現実は移民斡旋会社のうたい文句が「絵に書いた餅」であり、苦難の連続だった。3人以上の集会が禁止され、情報が途絶していた。それでも日本の短波放送を聞いていた人もいたが、大本営発表の景気のいい情報ばかりで真実はまったく伝わらなかった。ポルトガル語も理解できず、情報の多くはデマによるものだった。
1945年8月14日(日本では15日)の雑音混じりの天皇の玉音放送を聞いた人はわずかだった。玉音放送を信じなかった人も多く、英語の分かる人も含めても、日本の敗戦を理解した人は少なかった。
ブラジル各地の開拓地では「神国日本が勝った。天皇陛下バンザイ」と戦勝記念祝賀会を催すグループも多かった。もちろん、ブラジルの新聞や人々の話しから敗戦という現実を認識するものもふえていった。ブラジルの日本人社会は、神の国日本が負けるわけがないとする「勝ち組」と、「負け組」とに二分されてしまった。「日の丸」を燃やしたり、天皇の写真の踏絵を強要するものまで現れた。ブラジルの日系新聞『サンパウロ新聞』でさえ、「日本勝つ」の大誤報ニュースを流したという。日本の勝利を確信して家財や開拓地を処分して、日本の円に変え、いざ帰ろうと思ったら、「円」無価値だったことを知らされ、家族に言うこともできずに自殺した日本人が大勢いたという。
「勝ち組」から「青年愛国運動」、「桜組挺身隊」が出現、「負け組」からは「新撰組」が登場し、日本人同士が約五年間にわたって血で血を洗う闘争を繰り広げた。「勝ち組」が「負け組」の幹部を襲い、23人が生命を落とし、147人が負傷したという。このことは現在でも触れてはいけない日系人社会のタブーとされている。
ハワイでも「勝ち組」と「負け組」の対立が戦後10年もつづいたという。
◆インド抑留者の「勝ち組」と「負け組」
ブラジルやハワイに移住した人たちの情報不足と、「神国日本」の不敗を信念とする人による「勝ち組」と「負け組」の対立と、インドなどに抑留された人々の間の「勝ち」、「負け」は本質が異なる。
川内先生たちインド抑留組は戦場となった地域で生活し、あるいはイギリスなど連合国の支配地で仕事をしてきた人たちだ。緒戦での日本軍の優勢はともかく、戦争が二年、三年とつづけば、現実的な戦闘能力や国力の違いから相当に日本軍は不利だという判断できたはずだ。収容所内の待遇や司令官の言動を見れば、余裕があることも分かったはずだ。地元の英字紙の報道や英語の放送がある程度信頼できるということも理解できただろう。冷静に考えることができれば、日本が敗戦に向かっていたことは分かるはずだった。
不幸だったのは、元軍人など、日本の軍国主義体制に組していた人種がいたことだ。軍人、軍属、憲兵、警官、これらの人たちは戦争反対を唱えたり、日本の敗北を予測したりした人たち、親族が兵隊に行くのを悲しんだり、あるいは英語を読み書きしたり、アメリカ人やイギリス人と親しくする人々を「非国民」、「売国奴」と罵り、「赤(=共産党員)」として身柄を拘束し、拷問にかけて、死に至らしめたりする側にいた人たちだ。「負け」を認めることは自分のこれまでの人生を否定することであり、敗戦によって体制が替われば逆に犯罪者として訴追される可能性がある人たちだ。
敵国側のラジオ放送や新聞に載ったニュースの信憑性を疑うのはやむを得ないことかもしれない。「天皇の子である日本人は嘘はつかない」と固く信じ、日本のマスコミの情報を100%信じる人がいても不思議はなかった。そういう人もいただろうとは思う。しかし、現実をみて考えれば、ほとんどの人はかなり高い確率で日本は敗戦したかもしれない、英語マスコミのニュースの方が信用できると感じたに違いない。
それを認めたあとで、もし日本が勝っていたら今度は自分が「非国民」として糾弾されることになる。「卑しくも帝国軍人だった貴様が、神国日本が敗北したなどという荒唐無稽な妄言を信じるとは言語道断」と厳しい処分が下される。おそらく、それを恐れたのだろう。敗北が100%確定したあとで、「負け組」に転じても遅くはない。どうせ、「負け組」は敵国語に堪能な軟弱ものたちの集団だという意識もあったろう。
日本の軍人はすべて「武人としての誇りをもち、勇猛果敢、質実剛健」であるというのは大きな間違いだ。徴兵制度で戦場に駆り出された人たちはふつうの人たちだ。いわゆる職業軍人がそうかというと、中国東北部の満州で敗戦が決定的になり、ロシアが参戦して南下してきたときに一番先に列車に乗って引き上げていったのが日本軍の将校たちだった。口先では、「本土決戦に備えて」とかえらそうなことを言うが、数十万という一般人をロシア軍の前に置き去りにしていった。
収容所の司令官に頼まれて、「勝ち組」の説得にきた牟田口廉也中将にしても「生きて虜囚の辱ずかしめをうけるな」という戦陣訓をたれ、「天皇のため御国のために命を惜しむな」と檄を飛ばし、悲惨なインパール作戦をさらに悲惨にしてきた張本人が、虜囚となって、銃も剣もとりあげられて敵国の司令官の命令で抑留者の説得にきている。
マレー作戦で牟田口中将率いる第十八師団(久留米)はシンガポール占領後、ジョホール州の警備にあたり、治安粛清と戦場掃除にあたった。抗日ゲリラを殲滅する目的で、怪しいと思われる華僑やその家族を連行し、拷問し、殺戮したといわれている。牟田口中将はビルマに転戦し第十五軍司令官になった。インパール作戦の中止をもとめる柳田元三中将ら傘下の三師団長をすべて解任し、作戦を続行し、多くの将兵の犠牲を強いた張本人だった。
映画にもなった竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」にあったように、イギリス軍の降伏の勧告にしたがわずに玉砕した日本兵が無数にいた。牟田口中将の命令で数千、数万という日本兵がビルマ戦線で死んだ。破廉恥というべきだろう。 |