日本が太平洋戦争に敗北した昭和二十(1945)年八月十五日から、「勝ち組」が「負け組」を襲撃しようとして、警備兵の銃撃で27人の死者を出した事件のあと、日本への帰還船はなかなかやってこなかった。翌昭和二十一年になっても音沙汰はなく、イライラする日々がつづいた。
三月のある日、突然、収容所司令官が抑留者全員の名簿を改めて作成し、提出するようにという命令が下された。「帰国する日が近い」とデオリ収容所の日本人抑留者は全員浮き立った。早く名簿を作れば、その分だけ日本に早く帰ることができるような気がして、幾日も徹夜して名簿を作り提出した。けれども、何日待っても帰還船の話しは伝わってこなかった。
もどかしい日々が一カ月余りつづき、四月も終り頃になってようやくイギリス船でシンガポールまで送るという知らせが届いた。二日後に収容所から港に向かうと言われた。なじんだシンガポールまでいけば、日本は近い、全員が歓喜の声をあげた。
二日後、悲しいこともあった、そして、うれしいこともあったデオリの収容所をあとに、バスで鉄道駅に向かった。汽車に乗り、スリランカの東海岸の軍港トリンコマリ港まで三日かかった。
川内光治先生たち抑留者はイギリスの客船に乗せられた。まず、婦女子には一等船室があてがわれた。食事も一等船室の客に出すステーキなどだった。それに引き換え独身の男たちは甲板で寝起きさせられ、食事もご飯とおかずはイワシの缶詰という粗末なもんだった。戦争に勝ちイギリスの男たちは、自分たちがレディー・ファーストのイギリス紳士だったことを思い出したのでしょう。川内先生は思い出しながら皮肉っぽく笑った。自分たちだけがいい思いをしていると恐縮に思った一等船室に割り当てられた人たちから、食事の差し入れが届いた。
五日間の船旅を終えて、川内先生は四年と三ヶ月ぶりにシンガポールの土を踏んだ。
◆昭和二十年八月十八日、シンガポール
(この項は、篠崎護氏の「シンガポール占領と昭南時代」を参考にしています。)
日本軍の占領下にあったシンガポールは昭南特別市と呼ばれていた。昭和二十年八月十八日、敗戦の発表があった。第7方面郡司司令官板垣征四郎大将は、現在のシンガポール大学に置かれていた軍司令部に大隊長以上の将校、科長以上の文官をあつめて敗戦を認めた天皇の詔勅を伝えた。各々その部下を掌握して、軽挙を厳重に戒めた。そして、「我々は聖旨(天皇の意思)を奉載して矛を収めるのである」と諭した。
板垣大将は高級参謀当時、満州帝国の創設者の一人でだった。顔色は青白く、連日の懊悩のためか、疲労の色が濃かった。午後から夜にかけて、警備隊が駐留していたアレキサンダーやギルマンの兵営から、自決する将兵のピストルや銃声が響いていた。最後まで交戦を主張していた参謀も、司令部内で自決したと伝えられた。
翌日から、ブキテマの丘に建てられていた忠霊塔や、マクリッチ貯水池の西端にあった昭南神社も跡片なく破壊された。茨城機関などの特務謀略機関は火薬庫を爆破し、機関員は一斉に昭南から逃亡した。ある者はスカルノのインドネシア独立軍に投じ、ある者は資金を抱えて残置諜者となって、リオ(リオウ=シンガポールの南側にある島々)諸島や、スマトラの島々に散った。
連合軍は、日本の神風攻撃を恐れて、用心深く、戦艦ネルソン以下の英国艦隊は、遥かペナンの沖合いに仮泊して、ようやく8月29日になって日本の降伏軍使、河辺虎四郎参謀長を呼びつけた。降伏条件が決められて、ジョホール州クルワンに集結し始めていた日本軍は、リオ(リオウ)群島の無人島レンパン島に集結して、自活を命ぜられた。日本軍はクルワンで検閲され、万年筆や時計は取り上げられ、木綿の軍用靴下に入れた僅かな米とタピオカ薯の根を、リュックにさし込んで、バツパハから船でレンパン島に移動した。レンパン島は荒涼として作物など育つとは思えなかった。自活できるようになるまで四、五カ月かかった。多くの兵士が栄養失調で倒れた。この兵士の中に歌手の故藤山一郎さんがいた。藤山さんは兵士を力づけるために歌いつづけたという。
元気のいい兵士はシンガポールの作業隊に入れられて使役された。二万から三万人が港湾荷役や飛行場建設に当てられた。レンパン島組よりも過酷な環境に、やはり多くの兵士が死んだ。戦争後に、栄養失調や過労、その他の病気で死んだ軍人軍属は一万人に及んだ。それでも、満州からの引き揚げのような悲惨さも、シベリア抑留ほどの過酷さもなかった。
一般の日本人六千人はシンガポール島西方の地味の悪い、丘と湿地帯しかないジュロンに集結所を作った。清水建設、間組、鹿島建設などがわずか10日で36棟のバラックを造った。
ジュロンの結集所にあつまった日本人を驚かせたのは、手に手に食料品や嗜好品をもった現地の人々が多い日には700人もやってきてさし得れてくれたことだ。これを見た英国人は「英国のシンガポール統治は50年を超えたが、我々が日本軍によって拘束され、チャンギ刑務所に収監されている間、現地の人は一人もこなかった」と日本人がシンガポールの人々に好かれていたことに驚愕したという。
華僑への粛正(ただしくは清)という弾圧を恨みに思っている抗日義勇軍、マラヤ共産党などの反日的な活動はあったが、日本人は中国人を福建、広東、潮州、海南など出身地によって差別することなく一律に中国人として親しく接してきた。インド人とも、マレー人とも裸の人間同士として付き合ってきたからだろうと石原産業の杉山周三さんは分析している。
ジュロンの集結所があったあたりは、現在では大工業地帯になっている。
地元の新聞はジャパニーズを「Jap」と書き、日本人を「Nip」と書いて侮蔑した。九月十二日、日本の南方軍は正式に連合国軍への降伏文書調印式に臨んだ。サイゴン(現在のホーチミン・シティ)で病床に臥していた南方軍総司令官寺内寿一(ひさいち)元帥の代理として板垣大将が、連合国軍の南アジア最高司令官、マウント・バッテン海軍大将に対して降伏文書に署名した。
シティーホールに向かう丸腰になった板垣大将ら日本軍の将軍たちに、シンガポールの人たちは「バッカロー(馬鹿野郎)」、「オイッコラッ!」を罵声を浴びせかけ、投石する者もあったが、英国憲兵がこれを阻止した。英軍は、ホールを引き上げる日本の将軍たちがホールの前にあつまった数千の群集の侮辱を受けないように配慮した。
南方軍参謀長だった沼田多稼蔵中将は1948年までの三年間、作業隊が全員帰還するまで敗軍の将としてシンガポールで、残された兵士たちに軍としての秩序をたもさせ、最後に日本に帰っていった。また、海軍の第10艦隊司令長官・福留繁中将と第1南遣艦隊司令長官・柴田海軍中将の二人もセレタ軍港で使役される海軍の作業隊の面倒を見たという。 |