その十
シンガポールから日本へ
日馬プレス 渡邉明彦
 

 1946(昭和21)年5月はじめ、約5日間の航海で船はシンガポール港に入港した。およそ4年3ヶ月ぶりのシンガポールだった。
 港や街には、装備を解かれた日本兵たちが軍服のまま作業をしていた。連合軍に収容された日本人はセレタ軍港やチャンギ飛行場の建設、町の清掃作業などの強制労働が課せられた。「日本は負けた」、川内先生たちインド抑留組は改めて現実を目の当たりにした。
 約2千人のインド抑留組は民間人向けの収容所に入った。この施設は、戦争末期にシンガポールに在住していた日本人たちのうち、日本軍の兵士たちはジョホール方面に移され、さらにタイピンへと移動させられた。残された民間人は婦女子700人を含めて7,000人(6,000人とも8,000人ともいわれている。)だった。    
 ジュロン・キャンプの建設責任者は石原産業支店長の杉山周三氏、日本人町会が組織された。日本への引き揚げに関する交渉担当に横浜正金銀行(後の東京銀行、東京三菱銀行)シンガポール副支店長が選ばれた。生活必需品である米、砂糖、布地などを調達してくれたのは、戦争中に昭南物資配給組合を形成した人たち、とくに「越後屋」の支配人福田庫八氏だった。敗戦と言う苦境のまっただ中にあって、収容所にいた数千という人たちが飢えることなく安全に暮らすことができたのは福田氏を先頭に昭南物資配給組合のメンバーの努力の賜物だった。

《越後屋》
 1870(明治3)年新潟県柏崎に生まれた高橋忠平は家業の呉服屋を手伝っていたが、米相場に手を出して失敗し、親から勘当された。1896(明治29)年、上海に渡り苦労して、1908(明治41)年、シンガポールに呉服屋「越後屋」を開いた。「現金決済」、「接客態度」、「店内清潔」を店員に厳守させ、大繁盛した。1932(昭和13)年、病気のため柏崎に戻った。忠平の遺言は「一生一財」。高橋家を廃絶し、蓄えたとミは放出せよ。財産のことごとくを柏崎町に寄付したという。福田庫八氏は1916(大正5)年、13歳のときに奉公をはじめた。越後屋は当初、ビーチ・ロードとノースブリッジ・ロードの間のミドル・ロードにあったが、のちにウォーターロー・ストリートとクィーン・ストリートの間のミドル・ロード沿いに移った。店内にはエレベーターがあり、「掛け値なし」の看板が掲げられていた。

 収容所にはシンガポール残留の日本人、インド抑留組2千人のほかインドネシアやマレー半島から移されてきた約3千人が合流した。
 英語が達者だった川内先生は、収容所内の配給所の責任者をまかされ、17人の仲間とともに収容者たちの世話をすることになった。シンガポールからは次々に日本に帰還する船で、シンガポール上陸後2週間ほどで、ほとんど帰国していった。 日本に帰還できる日が訪れるのは3年から5年後と思われていた。しかし、第一陣は配線の年の1945年11月22日、3,444人を乗せた引き揚げ船が日本に向かった。すべての帰還が終わったのは1947年11月だった。
 マレー人、インド人、中国人などと結婚した国際結婚組は現地残留を希望し、168人に仮許可がおりた。シンガポールで歯科医院を再開する希望があった川内先生も、後に奥さんとなる忍さんとともに残留の仮許可をもらった。
 民間の帰国希望者が全員帰国したあと、収容所に入ってきたのは東南アジア各地にいた慰安婦だった。その数2万7千人だった。着のみ着のままの彼女たちは持ち物はほとんどなく、着物を洗濯して乾くまでの間は、真っ裸でうろうろしているので、川内先生たちはびっくり仰天だったという。
 彼女たちが帰艦船に乗るまでの2、3週間、日用品や食料の配給係だった川内先生たちは、あまりの人数の多さに彼女たちの中から手伝ってくれる人を募ったという。手伝いを買って出てくれた30歳前後の女性たちは、男顔負けにたくましく、大いに助かったそうだ。
 その慰安婦たちも日本に帰っていった。その後も、残された川内先生ら168人はひっそりとした収容所で生活していた。収容所の警備をしていたユーラシアン(欧米の混血児)の兵隊たちとも打ち解けて、朝の収容所側との打ち合わせ時間以外の外出が自由になった。
 抑留される前からの、シンガポールの友達が訪ねてきては、川内先生たちを町に誘ってくれた。シンガポールの町は米が不足していたので、日本軍が備蓄して収容所内にたくさん残していった米を少しずつもっていっては友達に分けた。川内先生たちも、中華料理、インド料理、マレー料理を以前と同じようにたのしんでいた。
 
 1946年1月、戦争中の虐殺事件などを裁く裁判がシンガポールではじまった。シンガポールで、マレー半島で粛正(正しくは粛清)と称した無差別に近い拷問・虐殺、タイとビルマ国境の鉄道工事での捕虜虐待などの罪で、日本軍将校らが責任を負わされ、135人が処刑された。また、多くの軍人が有罪の判決を受けた。
 川内先生たちの残留の仮許可には、イギリス軍に協力して通訳をするという条件がつけられていた。軍事裁判に出廷した日本軍軍人たちに、裁判官の判決を伝えると言う苦痛極まる仕事だった。死刑の判決を、若い将校たちに伝えるという過酷な任務に、川内先生は堪えることができなかった。この仕事を拒絶すれば、残留の仮許可は取り消される。それでも、川内先生は断ってしまった。許可は取り消された。
 いよいよ帰国することになった。しかし、この時期になると、日本からくる帰艦船のほとんどは傷病兵油送の病院船だった。1,946年11月、移民船として南米航路で活躍していた「アルゼンチナ丸」の乗船定員に余裕があったので川内先生と忍さんたちはこの病院船に乗った。「アルゼンチナ丸」は戦争中に仮の航空母艦に改造されており、二本あるスクリュウのうちの一本が破壊されていて、片肺航海という、まさに傷病兵を載せるにふさわしい、傷だらけの艦船だった。
 民間人の帰国にはトラックの使用が許可されるということで、川内先生はトランク3個、忍さんはトランク1個をもって乗り込んだ。しかし、船内で苦しんでいる傷病兵の食事の貧しさを見るに見かねて、川内先生たちは手持ちの食料を分け与えたという。故郷の日本に向かう船の中で、重病人たちが毎日数体から十数体、水葬にふされた。
 船は出航後25日かかって長崎県南風(はやのさき)に入港した。

 
     
 
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