その十
引揚げ船の着く港
日馬プレス 渡邉明彦
 

 川内光治先生と忍さんを乗せた「アルゼンチナ丸」は昭和21(1946)年12月12日、長崎県の佐世保港に到着した。埠頭があるのが浦頭(うらがしら)、最寄り駅が「南風崎(はえのさき)駅」。クアラルンプール日本人会の「日馬和里」に連載された石橋總吉郎氏が書かれた川内先生の記録「ある日系マレイシアンの記録」には「ハヤノサキ」と書かれているが、「はえのさき」の聞き違えだろうと思う。(実際にこの地名を知っている人以外には、ほとんど区別がつかないと思う。)

厚生省佐世保引揚者援護局

 終戦時に海外にいた日本人は、軍人が350万人、一般の人々が310万人、あわせて660万人だった。外国からの帰還を受け入れたのは『引揚げ港』に指定されたのは浦賀、横浜、呉、下関、鹿児島、佐世保、博多、門司、函館、仙崎、舞鶴など11の港だった。二葉百合子が歌った「岸壁の母」の舞台となった舞鶴には昭和20年10月7日に韓国の釜山から「雲仙丸」が引揚者とともに入港した。昭和33年9月までの13年間に、約66万3千人の引揚者と16,269柱の遺骨を迎え入れた。公式な引揚げ船第一号の「興安丸」が終戦の日から数えてわずか19日目の9月2日に入港した山口県仙崎港には一年間で約41万4千人の引揚者を受け入れた。
 九州では佐世保と博多が主力引揚げ港となった。昭和20年10月14日に朝鮮半島沖の済州島から米軍のLST(上陸用舟艇)に乗せられた旧陸軍兵士を皮切りに、25年4月の最後の引揚げ船まで139万6468人が引揚げてきた。 主な引揚げ地は旧満州から51万8千人、華北(中国北部)42万8千人、華中21万9千人、朝鮮半島12万1千人、台湾2万2千人、ビルマ9千8百人、東南アジア3万2千人、インドネシア1万5千人、フィリピン1万5千人など。舞鶴の引揚げ者の多くが軍人だったのに引きかえ、佐世保に帰国した約140万人の中の76万人が民間人だった。
 佐世保は明治19(1886)年までは人口3,700人の寒村だった。第三軍海軍ク鎮守府がせ設置され、東洋一の軍港に発展した。終戦後、いち早く平和都市宣言をして、旧日本軍施設を平和目的に転用していった。旧海軍工廠造船部は、技術者ともども現在の佐世保重工業に継承された。現在もなお、海上自衛隊基地と米軍基地が残されている。

 引揚げ船が長崎県佐世保の浦頭(うらがしら)港に入港すると、引揚者たちは小船に乗せられて桟橋に上陸した。その場で検疫を受けた。ノミ、シラミなどの有害寄生虫の防除のために首根っこをつかまれ、DDTの白い粉末を頭からかけられた。未曾有の大集団が、衛生状態のよくない国から、狭くて不潔な船内にぎゅうぎゅうに押し込められて帰還してくる。コレラの流行国からの帰還者も多い。コレラに対する検疫は念入りに行われた。また、15歳から55歳までの女性は、婦人相談所で健康の問診を受けなければ「引揚証明書」が交付されなかった。
 検疫がすむと約7キロの山道を歩き、収容所となった厚生省佐世保引揚者援護局(元針尾海兵団。現在、ハウステンボスがあるところ)で衣服や日用品の支給を受け、2泊又は3泊したあと、約2キロ歩いて「南風崎(はえのさき)駅」から汽車に乗ってそれぞれの故郷へと戻っていった。

悲惨な引揚者

 引揚者の中には栄養失調や下痢、皮膚病などの病気に苦しむものも多く、敗戦というショックから精神的に立ち直れない人もいて、まさに心身ともに疲労困憊の情況だった。とくに、中国東北部の旧満州から引揚げてきた人びとの有様は悲惨だったと記録されている。日露中立条約を破棄して終戦の数日前に中国国境を越えてきたロシア軍に追われた人々は、守ってくれるはずの陸軍は早々と逃げ去ってしまい、ロシア兵のみならず中国人たちの意趣返しにもあっての逃避行だった。親に置き去りにされた日本人の子供を大事に育ててくれた中国人もいたが、昨日まで威張り散らしていた日本人を膝下にしくのはサディステックな快感だったのだろう。日本人の多くが暴漢と化した中国人たちに金品を収奪され、家族を失い、命からがら逃げ延びた。

 満州や華中などからの引揚者の荷物は一人につきリョックサック一個と手で持てるだけの物品、貴金属は持出し禁止、所持金は一人1000円までだったという。着の身着のまま、老人連れ、子供連れも多かった。検疫中に疑似コレラの患者が発見され、佐世保港外に船内で一ヶ月間隔離されたこともあったという。遺骨となって帰国した人、帰国の途中で死亡した人もいた。船内で栄養失調や病に倒れ、上陸直後に不帰の客となった人が4千人いた。その半数は乳幼児だった。一ヶ月に600人の死者が出て、職員たちが不眠不休で火葬をした。それは悲惨だった。
 佐世保の浦頭は海外からの引揚者を受入れる港だっただけでなく、母国に引揚げる朝鮮半島出身者、中国、台湾、沖縄、奄美大島へ帰還する人たちを乗せる送還船の出発基地でもあった。戦前、戦中と、日本人から受けた差別や虐待、強制労働に対する激しい憎しみ、憤りを警察官や援護局職員にぶつける人も多かったという。

 それに引き換え、東南アジアからの引揚者は恵まれていた。もちろん、トランク3個の川内先生とトランク1個の忍さんは恵まれていた。その荷物を狙うハイエナが待ち受けているとは、二人は予想もしなかった。日本人の役人が、4年に近い抑留生活をしてきた川内先生と忍さんの荷物に目をつけた。

*DDTとは
 スイスのミューラーによって強い殺虫効果があることを認められた。蚊やノミ、シラミを駆除することで黄熱病やマラリア、チフスなどの伝染病の蔓延を劇的に減少させた。ミューラーは1948年にノーベル医学生理学賞に輝いた。しかし、DDTが昆虫を食べる鳥の体内に蓄積し、鳥を死に追いやり、環境に長期間悪影響を及ぼすことが分かり、さらに発ガン性が指摘され、一気に禁止運動が高まって、1968年にDDTの使用は全面禁止になった。最近になって、DDTの人への発ガン性は否定され、環境への長期間の残存性もごく短期間であることが分かってきた。
     
 
ここに掲載の記事・写真・図表などの無断転載を禁止します。
著作権はA. P. PRESS (M) SDN. BHD.またはその情報提供者に帰属します。
POWERED by Minamikaze Digital Animation Studio Enterprise