引揚げ船が沖縄沖を通りすぎ、薩摩半島をかすめたとき、薩摩富士(開聞岳=かいもんだけ、薩摩半島最南端にある円錐形の単独峰。標高924mの火山で、6世紀から9世紀にかけて爆発を繰り返した。)を見た時の感動。やっと返ってきた故郷の山。日本を出たときは単身だったが、苦難の果てに妻の忍さんと肩を並べて薩摩富士を眺めるよろこび。涙がこみ上げてきたという。
そんな喜びも、希望も、涙も、必死の思いで持ち帰ってきた荷物を同胞である日本の役人に没収されたときにすべて吹き飛んでしまった。自分たちを迎えた同胞、日本人の役人の心の貧しさ、卑しさに、川内先生と忍さんは日本への愛着が少なからず失われてしまったのかも知れない。
複雑な思いを胸に、二人は川内先生の故郷鹿児島に向かった。そして鹿児島に落ち着いた。しかし、鹿児島には仕事がなかった。いくら、重い荷物をもってきても、そんなものは月日が経てばすぐになくなってしまう。鹿児島の親戚や友人知人にも分けてあげなければならなかった。
働かなければ、生きてはいけない。しかし、専門である歯科医として働くことが出きる場所が鹿児島にはなかった。 終戦直後のどさくさの最中、人々は貧困のまっただ中にあった。今日の食料が手に入るかどうかも分からないときに、歯科医は無用だったのだろう。おそらく、日本中探しても、視界の働く場所はほとんどなかっただろう。
そして、鹿児島はイギリス領だったマレーで自由闊達に生まれ育った忍さんにはつらいものだったという。質実剛健の薩摩気質は男尊女卑にも感じられるものだったのだろう。忍さんには理解できない因習の多い土地柄、日本語の上手でない、いや、ふつうの日本人でも理解しずらい薩摩(鹿児島)弁をマレー生まれの忍さんが十分に理解でききる訳がない。生活習慣が分からない。言葉が通じない。後ろ指を指されていると被害妄想に陥ることも多かっただろう。いや、実際に、後ろ指を指されていたかも知れない。
川内先生と忍さんは一緒に引揚げてきた大分県の??(かんたん=別府湾のこと)の友人宅に身を寄せた。石橋總吉郎氏が『日馬和里』に書いた「ある日系マレイシアンの記録」には大分の「カンタン」とカタカナで表記されている。おそらく、カンタンという呼び方は大分市や別府市、その近郊に昔から住んでいた人たちが日常的に使っている地名であって、外部の人々には「カンタン?かんたん?何のこと?」という世界なのだろう。
国東半島から別府湾に入ってくると西大分港にかけて山に囲まれて陥没した感じがする。だからかな?というよりも、鎌倉・室町時代にやってきた中国人は別府湾の形状が蓮の花に似ていることから、この名をつけたという。だから、鎌倉時代、室町時代の別府湾をイメージしなければならない。「??」という字がむずかしいので、別府湾のことを「かんたん湾」と表記することもある。)
昭和20年10月4日、米第5海兵隊戦車大隊の軍政部先遣隊としてホーマー・L・ベーカー大尉ら4名が大分駅に着いた。翌21年占領軍キャンプが別府野口原に建設され、平時2,000人が駐留した。市内のホテルや住宅も接収された。キャンプ地は、現在の別府公園からビーコン、野口運動場にかけての広大な地域だった。兵舎、教会、学校、体育館など20棟が建てられた。キャンプ・チッカマウガと呼ばれた。
川内先生は米占領軍の雑益の仕事に出ようと、毎朝早く集合所に出向いて仕事をもらった。川内先生の仕事は、貨車に積まれて運ばれてきた石炭をトラックに移し替える作業だった。最初のうちは上にあった貨車の石炭が作業が進むにつれ下がっていく。逆にトラックの方は最初は下にあったのが平行になり、やがて上に向かって投げるように積み込むようになる。歯科医と言う職業柄、もともと激しい肉体労働が得意ではない川内先生にとっては、大変に苦しい作業だったようだ。家族をささえるため、食べていくためにやらなければならないと、歯を食いしばって頑張った。八人1組の作業だった。農家の若い男たちにとってはらくな作業だったようだ。作業の監督は米兵だった。川内先生は英語で話しかけた。米兵はタバコをくれた。このタバコを作業仲間に分けた。そうしたら、若い仲間に「作業は俺たちがやるから、お前は米兵と仲よくして、毎日タバコをもらってくれ」と言われた。ここでも英語が役にたってすくわれた。
いくらからくになったとはいえ、川内先生にはつらい日々がつづいた。とうとう身体を壊し短期間だが入院することになった。米軍の病院だけに医師も看護婦もアメリカ人だった。医師の質問に川内先生は流暢な英語で答えた。医師は驚いて、「まさか、この病院に通訳なしで英語が通じる日本人の患者がいるとは思わなかった」と驚いた。「きみはいったい何者なんだ。本当の職業は何なんだ」と尋ねられ、「シンガポールで歯科医を開業していました」と答えた。アメリカ人医師は「そういうことなら、きみはもう石炭運びなどする必要はない。(米軍が)病院を新設していて、そこでは歯科医を募集している。わたしが紹介状を書く」と告げられた。
応募者は川内先生より先に8人。「確率は悪いな」と半分諦めていたら、採用すると言われた。ここでも英語が堪能であることが幸いした。先輩の歯科医とともに働くことになった。
病院は別府にあった。とはいえ、川内先生が起居していた家の最寄り駅の「鉄輪(かんなわ)駅」は現在は別府市内の鉄輪温泉のあたりらしい。汽車の本数が少ないので、朝5時半の始発列車で約20km離れた別府に行き、別府駅からは米軍のトラックで病院に行った。通勤に2時間かかったという。
忍さんにとっては、大分県の??出の友人宅での生活は、やはり、つらいものだった。日本では暖かい九州ではあっても、日本の冬は一年中夏のマレー生まれの忍さんにはこたえた。寒い、それに加えて、物資も食料もない。お腹には翌年生まれる予定の赤ちゃんがいる。ご飯のお代わりをしたくても、それを言えない居候のつらさ。ひもじく、苦しい時期だった。
1947年2月、??の友人の家を出て、別府市内に夫婦で下宿した。47年4月、忍さんは川内先生たちより先に日本に引揚げてきて、長崎県島原にいた忍さんの両親の家で長女光江さんを産んだ。乳児ができると、下宿生活も息苦しくなり、友人の病院の病室に移った。しかし、それも長くはつづかず、米軍に頼んで、ホテルを接収して米軍勤務者用の宿舎となっていた部屋に移った。「月給60円、なんとか暮らすことができたのは、家賃がタダだったからでしょう」と川内先生は笑っていたという。
それでも、主食である米がなかなか手に入らなかったのは、日本中どこでも同じでした。戦争が終わる前まで小作人だったお百姓が農地改革で自営農家になり、おまけに町から身だしなみのいい人たちが物乞いのようにして「米を分けてください」と頭を下げてくる。お百姓たちは下克上をとげた心境だったのかも知れません。川内先生が米軍で働いていたおかげで、石けん、タバコ、マッチ、衣類といったお百姓が喜ぶような物資が比較的容易に手に入り、米をかけてもらうのもらくでした。とはいえ、運が悪いと要所要所で待ち構えている経済警察に、闇米として没収されたり、途方もなく安い公定価格で買い上げられてしまいました。
終戦直後、日本は未曾有のインフレに襲われた。1932年に、戦費捻出のため、日銀によって多額の国際を発行された。戦争によって生活必需品の生産能力が低下し、物資が不足していた。その結果、終戦直後から超インフレがはじまり、実に物価が350倍になってしまった。現金よりも物の方が価値がある時代だった。 |