その十
「朝鮮戦争」。川内先生の体験の前に
日馬プレス 渡邉明彦
 

 米軍病院で働いていた川内先生は、1950年6月にはじまった朝鮮戦争と深く関わっていく。平和主義者である川内先生の前に、悲惨な戦争で死んだ米兵たちの死体が送られてきた。歯科医であった川内光治先生は、否応もなく戦争でなくなった米兵の遺体と向き合うようになった.それは、悲しくつらいことだった。
 朝鮮戦争は、日本にとっては太平洋戦争で壊滅的打撃を受けた経済を回復させるには十分すぎる起爆剤となった。そして、現在も朝鮮民族を苦しめている「南北離散家族」問題の出発点でもある。
 朝鮮半島が38度線を境に南北に二分され、日本人や韓国人、タイ人までも含めた拉致問題、核開発問題とミサイル発射及び輸出問題、偽札や麻薬の製造販売問題など、北朝鮮をめぐって様々な問題が発生している。ここ数年、北朝鮮に媚を売る韓国の指導者たち、朝鮮戦争時代から北朝鮮と深いつながりをもつ日本の政党や政治家たちがそれぞれの思惑をもって北朝鮮という不思議な国家とやり取りをしている。わたしたち日本人は、遠くない将来、北朝鮮から核弾頭を装備したミサイルが飛んでくる可能性を不安に思うようになった。
 そうした現在を産んだ朝鮮戦争については、中学高校の世界史の時間にほんの少し勉強しただけだ。マッカーサーや金日成は言うにおよばず、世界史上の立役者のスターリンや毛沢東まで登場する朝鮮戦争について、少し勉強しよう。
 北朝鮮の金日成主席から息子の金正日総書記へと受け継がれた特殊な思想(名前だけは共産主義だが、実体はまったく異質)独裁体制のバックにある、ソ連(現在のロシア)と中国との関係の原点もここにある。北朝鮮がどんなことをやろうと、どんな情況にあろうと、保護者であらねばならない。とくに中国は米国とのこの戦争で100万の兵士の生命を失った。
 川内先生の戦後の現実と同時に、北朝鮮と関わる国々について考えてみたい。

スターリン、毛沢東、金日成の登場

 第二次世界大戦の日本の敗北によって、日本の統治下にあった朝鮮半島は解放された。終戦後間もない1946年2月8日、金日成を中心とした共産勢力はスターリン率いるソ連のバックアップを受けて、朝鮮臨時人民委員会を設けて共産主義国家設立に向けて動きはじめた。一方、日本の統治時代に米国に亡命していた李承晩は46年6月、半島南部で南朝鮮過度政府を設立した。
 48年2月8日、朝鮮人民軍を設立し、2月26日には北緯38度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を宣言した。米国はこれを激しく非難した。金日成主席は3月には半島全体の電力を補っていた、水豊ダムなど、日本が建設した水力発電所からの送電をストップした。済州島では南朝鮮労働党が武装蜂起し、鎮圧の過程で軍部隊の反乱や島民の虐殺があった。
 李承晩は48年8月13日、大韓民国の成立を宣言した。これに対抗して、金日成は同年9月9日、旧ソ連のバックアップで朝鮮民主主義人民共和国の設立を宣言し、朝鮮半島上に二つの国家ができあがった。対立を望まない米国と旧ソ連は、両国から撤退する方向にあった。米国は李承晩による北朝鮮攻撃を恐れていたが、実際には李承晩は日本の対馬への侵攻計画を密かに練っていたという説もある。
 北朝鮮が韓国に攻め入ってくるとは韓国も、米国も想定していなかった。米国は、むしろ韓国が北へ攻め込めことを心配し、重装備をさせず、兵力も少なくとどめていた。
 金日成はスターリンに開戦許可をもとめた。スターリンは中華人民共和国の毛沢東の了解を前提に南への攻撃を許可したという。
 1950年6月25日午前4時、韓国人民軍は「暴風(ポップン)」の暗号とともに38度線を超えた。ただし、北朝鮮は現在に至るまで「南朝鮮(韓国)が先制攻撃してきたので反撃した」のが開戦の理由として一歩も譲らない。30分後にはソ連製のT−34戦車を中心とした約10万の兵力が砲撃しつつ南進した。同月27日国連安保理で北朝鮮の行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退をもとめる「北朝鮮弾劾決議」が常任理事国のソ連が欠席したまま採択された。同月28日、ソウルが陥落した。陸海空合わせて約22万のの兵士と圧倒的に協力な戦車、爆撃機、艦船をもつ北朝鮮に対し、重装備もなく兵力は約6万5千にすぎない韓国軍の士気は見る影もなく萎え果てていた。
 国連安保理は25万人の米軍を中心に、英国、オーストラリアなども加えた国連軍を組織し、北朝鮮に対抗した。しかし、準備不足の国連軍は敗北を重ねていた。対する北朝鮮軍も兵力不足を現地での徴用で補っていた。(これが南北離散家族の原因の一つとなった。)
 金日成は解放記念日の8月15日までに南北朝鮮の統一を果たそうと朝鮮半島南端の釜山近くまで攻め込んだ。しかし、国連軍は釜山で必死に守り、北の進撃を止めた。
 米軍の司令官マッカーサーは戦線の立て直しに全力を注ぎ、9月15日、仁川に国連軍を上陸させ、攻勢に次ぐ攻勢で息切れ状態になった北を撃破していった。敗走しながら北の軍隊は散りじりになり、韓国内に残された兵士はゲリラ化していった。9月28日、国連軍はソウルを奪回した。
 10月1日、南による統一のチャンスと考えた李承晩は38度線を超えた。同月20日、平壌を攻略した。中国の警告を無視し、国連軍も北進し、中国との国境の鴨緑江まで進軍した。
 10月25日、中国人民志願軍が参戦し、米中の代理戦争の様相を呈してきた。中国軍は平壌を奪回し、再びソウルを攻略した。中国軍は兵士がどれだけ倒れても、次ぎから次に新手の兵士を繰り出してきた。いわゆる人海戦術だった。米軍と中国軍は一進一退の攻防を繰り返した。泥仕合になって、51年6月23日、見るに見かねたソ連が国連に休戦を提起した。休戦会談が始まった。南側にとらえられた北の捕虜は13万余り、北にとらえられた南の捕虜は2万5千。送還を望まない北が和の捕虜が7万人余りいて、捕虜交換問題で交渉は難航した。会談は中断し、再び戦闘は激化した。会談が再開された後、李承晩は停戦に反対しつづけたが、53年7月27日、休戦協定が締結され、一応の決着はついた。
 朝鮮戦争によって、北朝鮮の死者は250万人、韓国は133万人で大多数が一般市民だった。、中国軍の死者100万人、米軍は6万3千人だった。太平洋戦争での日本人の死者は221万人というから、どれだけ凄まじい攻防だったかが分かる。

朝鮮戦争特需

 太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗北で日本経済はすさまじい打撃を受けた。もともとABCD包囲網(米国、英国、中国、オランダの4カ国による経済封鎖)は鉱物資源、エネルギー資源の乏しい日本経済に大打撃を与えていた。それに追い討ちをかけるように。米軍は日本の鉱工業の拠点をB29による空襲では狙い撃ちにした。
 敗戦後、日本は世界の最貧国の仲間入りした。未曾有のインフレで物価が暴騰し、逆に貨幣価値は日に日に下がっていった、人々は貧困に悩み、飢えに苦しんだ。
 敗戦後から5年後に勃発した朝鮮戦争は、日本にとってまさに僥倖だった。「朝鮮戦争特需」という恩恵を受けた。代表的な例を挙げると、トヨタのトラックや四輪駆動車が飛ぶように売れた。買い手は米軍だった。隣国での戦争は日本の重工業、鉱工業を復活させた。
 朝鮮半島に出撃する在日米軍や在韓米軍の物資補給という直接的な特需、また、在日国連軍や外国機関への間接的な特需もあった。昭和25(1950)年8月には横浜に在日兵站司令部が置かれた。日本国内に基地があり、多くの兵隊が駐留し、出撃していけば、周辺地域の経済は生活必需品の小売りだけでなく、夜のサービス産業も活性化する。
 米軍などから注文のあった土嚢、軍服、軍用毛布、テントなどの繊維製品は「糸偏」と呼ばれた。前線で陣地の構築に必要な鋼管、針金、鉄条網、コンクリートなどは「金偏」と呼ばれ、「糸偏景気」、「金偏景気」と呼ばれた。ちなみに,昭和26(1951)年の法人税上位10社はすべて繊維業種だった。
 昭和27年にはGHQ(進駐米軍司令部)は覚え書きを交わし、いくつもの企業に解体・分社されていた旧三菱重工業や旧富士重工業(旧中島飛行機)を再統合し、戦闘機や戦車の修理が委託された。終戦までに蓄積された技術が認められ、中断していた技術開発が思いがけず、米軍の指導で最新技術を入手することができた。米国の大量生産のシステムは、非効率的だった戦前の工場のシステムを一新させ、高度の技術ももつ効率的な生産システムをもたらした。
 特需のもたらした経済効果は、1950年から52年までの3年間に10億ドル、間接特需は55年までに36億ドルという。数字的には終戦後の米軍駐留に対する費用負担を考えれば,儲かったというほどではない。しかし、朝鮮特需が終わった後にどう生き残るか、繊維業界も鉱工業界も米国の贈り物である技術とシステムをバネにしたたかに生き残った。企業にとって,日本人にとって得たものは金銭をはるかに上回るものだった。
 日本は世界有数の工業国として再生した。日本の経済発展は「朝鮮戦争のおかげ」という複雑な思いが韓国の人々にあるのは仕方のないことだろう。

 
     
 
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