(前回からのつづき)
金日成は解放記念日の8月15日までに南北朝鮮の統一を果たそうと朝鮮半島南端の釜山近くまで攻め込んだ。しかし、国連軍は釜山で必死に守り、北の進撃を止めた。
米軍の司令官マッカーサーは戦線の立て直しに全力を注ぎ、9月15日、仁川に国連軍を上陸させ、攻勢に次ぐ攻勢で息切れ状態になった北を撃破していった。敗走しながら北の軍隊は散りじりになり、韓国内に残された兵士はゲリラ化していった。9月28日、国連軍はソウルを奪回した。
10月1日、南による統一のチャンスと考えた李承晩は38度線を超えた。同月20日、平壌を攻略した。中国の警告を無視し、国連軍も北進し、中国との国境の鴨緑江まで進軍した。
10月25日、中国人民志願軍が参戦し、米中の代理戦争の様相を呈してきた。中国軍は平壌を奪回し、再びソウルを攻略した。中国軍は兵士がどれだけ倒れても、次ぎから次に新手の兵士を繰り出してきた。いわゆる人海戦術だった。米軍と中国軍は一進一退の攻防を繰り返した。泥仕合になって、51年6月23日、見るに見かねたソ連が国連に休戦を提起した。休戦会談が始まった。南側にとらえられた北の捕虜は13万余り、北にとらえられた南の捕虜は2万5千。送還を望まない北が和の捕虜が7万人余りいて、捕虜交換問題で交渉は難航した。会談は中断し、再び戦闘は激化した。会談が再開された後、李承晩は停戦に反対しつづけたが、53年7月27日、休戦協定が締結され、一応の決着はついた。
朝鮮戦争によって、北朝鮮の死者は250万人、韓国は133万人で大多数が一般市民だった。、中国軍の死者100万人、米軍は6万3千人だった。太平洋戦争での日本人の死者は221万人というから、どれだけ凄まじい攻防だったかが分かる。
朝鮮戦争特需
太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗北で日本経済はすさまじい打撃を受けた。もともとABCD包囲網(米国、英国、中国、オランダの4カ国による経済封鎖)は鉱物資源、エネルギー資源の乏しい日本経済に大打撃を与えていた。それに追い討ちをかけるように。米軍は日本の鉱工業の拠点をB29による空襲では狙い撃ちにした。
敗戦後、日本は世界の最貧国の仲間入りした。未曾有のインフレで物価が暴騰し、逆に貨幣価値は日に日に下がっていった、人々は貧困に悩み、飢えに苦しんだ。
敗戦後から5年後に勃発した朝鮮戦争は、日本にとってまさに僥倖だった。「朝鮮戦争特需」という恩恵を受けた。代表的な例を挙げると、トヨタのトラックや四輪駆動車が飛ぶように売れた。買い手は米軍だった。隣国での戦争は日本の重工業、鉱工業を復活させた。
朝鮮半島に出撃する在日米軍や在韓米軍の物資補給という直接的な特需、また、在日国連軍や外国機関への間接的な特需もあった。昭和25(1950)年8月には横浜に在日兵站司令部が置かれた。日本国内に基地があり、多くの兵隊が駐留し、出撃していけば、周辺地域の経済は生活必需品の小売りだけでなく、夜のサービス産業も活性化する。
米軍などから注文のあった土嚢、軍服、軍用毛布、テントなどの繊維製品は「糸偏」と呼ばれた。前線で陣地の構築に必要な鋼管、針金、鉄条網、コンクリートなどは「金偏」と呼ばれ、「糸偏景気」、「金偏景気」と呼ばれた。ちなみに,昭和26(1951)年の法人税上位10社はすべて繊維業種だった。
昭和27年にはGHQ(進駐米軍司令部)は覚え書きを交わし、いくつもの企業に解体・分社されていた旧三菱重工業や旧富士重工業(旧中島飛行機)を再統合し、戦闘機や戦車の修理が委託された。終戦までに蓄積された技術が認められ、中断していた技術開発が思いがけず、米軍の指導で最新技術を入手することができた。米国の大量生産のシステムは、非効率的だった戦前の工場のシステムを一新させ、高度の技術ももつ効率的な生産システムをもたらした。
特需のもたらした経済効果は、1950年から52年までの3年間に10億ドル、間接特需は55年までに36億ドルという。数字的には終戦後の米軍駐留に対する費用負担を考えれば,儲かったというほどではない。しかし、朝鮮特需が終わった後にどう生き残るか、繊維業界も鉱工業界も米国の贈り物である技術とシステムをバネにしたたかに生き残った。企業にとって,日本人にとって得たものは金銭をはるかに上回るものだった。
日本は世界有数の工業国として再生した。日本の経済発展は「朝鮮戦争のおかげ」という複雑な思いが韓国の人々にあるのは仕方のないことだろう。
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