その十
戦死者の無惨な死体の処理班に(1)
日馬プレス 渡邉明彦
 

 朝鮮戦争で米軍は6万3千人の兵士の生命を失った。米軍キャンプ内の病院は傷病兵の治療をする病院であると同時に、戦死者の遺体(の一部の)収容所になってしまった。川内先生も死体処理班に配置換えとなった。

 小倉に駐留していた米軍は第24師団第19連隊約4,200名の将兵が家族とともに暮らしていた。開戦とともに第24師団第19連隊は兵器とともに輸送船に乗り朝鮮半島に向かった。重火器、爆撃機など最新の兵器を装備した米軍は北朝鮮軍を軽く見ていたようだと川内先生は語っている。米軍では新兵が配属されると「戦争の残虐さ、悲惨さ、異常さ」について徹底的な教育が行われたという。
 太平洋戦争中に撮影したフィルムをまわして教育する。だが、新兵にとってはフィルムは現実感を伴わない「過去の戦争の記録映画」でしかない。圧倒的な武器を手に、気軽に出征していったという。敗走するなどとは思いもよらなかったのだろう。トラックで丘の麓の道路を敗走する米軍は、丘の上に陣取った北朝鮮や中国人民軍の銃弾の格好の標的となってしまった。

 残された将兵の家族ものんびりしたものだったようだ。戦闘で焦土と化した朝鮮半島で、500万に近い兵士や一般市民が死ぬという過酷な情況になるとは夢にも思わなかったようだ。将兵たちはまさに死線をさまよっていた。小倉のキャンプでは将兵たちの妻たちの中には陽気に遊んでいるものも多かった。日本人の青年と浮き名を流していた女性たちもいたという。

 当時の米軍は戦闘などで戦死者がでると、とりあえず現場近くの土を掘って遺体を仮埋葬した。戦闘状態が落ち着いた後、掘り返してビニール袋に詰めてもち帰る。戦況が不利で仮埋葬する余裕がないときには遺体は戦場に放置され、やはり戦況が落ち着いたときに遺体を回収し、ビニール袋に詰める。当然、遺体の傷みは激しかった。中には砲弾の直撃を受けて肉片しか残らなかった遺体もあった。

 米軍は個々の軍人の記録を丹念にとっていた。レントゲン写真で全身の骨格のデータをとり、ケガや手術などの痕も記録された。歯の治療を受けたものは、カルテに残された治療方法、使用された素材などが残っている。死体処理班に送られてきたビニール袋の中に頭部があれば、カルテと照らし合わせて遺骸の氏名を特定することができた。頭部からは筋肉で支えられている下顎(あご)部が欠落しているものも多かったが、上顎部に残された歯をチェックして、口腔内に一本の義歯でも残されていれば、氏名を特定することができたという。

 遺骸は強烈な死臭(腐臭)に満ちていた。川内先生たちは、なれるまで防毒マスクをして、ゴム手袋で作業したという。それでも、朝鮮半島は寒冷地ということもあって冬に送られてきた遺骸は、傷みも腐敗臭もさほどではなかったという。もちろん、夏の暑い時期には悲惨な遺骸が送られてきて、蒸し暑さの中で防毒マスクにゴム手袋で処理をするのは大変つらい作業だった。なれてくると、防毒マスクもゴム手袋もなして作業をするようなった。作業のあと、全身を石けんでこれでもかこれでもかと洗っても、死臭、腐臭が消えないような気がしてならなかった。あの「乾いた」臭いの記憶は何十年経っても川内先生の鼻の奥にとどまっていた。だから、家に帰って妻や幼い子供の前では、そんな仕事をしているとはいっさい語らなかった。

 身元が特定された遺骸は骨についていた肉が削ぎ落とされて骨だけとなり、人形の石膏に埋め込まれて遺体となる。遺体が入れられた棺には星条旗で包まれ、本国に送られてゆく。軍によって葬儀が行われ、軍に墓地に埋葬される遺体もあれば、親族の待つ故郷に送られ埋葬されるものもあった。

 川内先生の直属の上司だった中尉は、朝鮮戦争開戦とともに戦地に派遣された。ちょっと男前の温厚な医師で、元々は民間人だった。遺体の処理にあったていた同僚の医師が「この人は」と叫んだ。砲弾で吹き飛ばされたのだろう片腕片足の遺体を指差していた。上司だった中尉の遺体だった。同僚たちは呆然として遺体を見下ろしていた。若い頃に野球の選手だったときの骨折のあとも確認され、本国に送られていった。一緒に働いていた頃の温和な中尉の姿を表情を思い出すと、中尉をただの物体にしてしまった戦争の悲惨さに言葉を失ってしまった。同僚たちの中には、診療所時代に一緒に撮った写真をもっている同僚も何人もいた。全員が寂しい、悲しい、空しい思いだった。

 どんなに調べても身元が判明しない遺体も小倉の米軍病院だけでも数十体あった。その中には明らかに日本人(日系人?)と思われる遺体もあったという。

 1年後、川内先生は院長にたのんで死体処理班をやめさせてもらった。元の診療所に戻ったあとも、肉を見るたびに戦死して送られてきた無惨な遺体が思い出されて、四、五年の間、肉を口にすることができなかったという。

 米軍病院のあるキャンプには、朝鮮戦争に派遣された軍人の家族は本国に戻り、新たな部隊が駐留していた。1951年9月8日、サンフランシスコ会議で講和条約が締結された。52カ国が参加したが、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3カ国は調印しなかった。このとき、日米安全保障条約が締結された。この時まで米軍は占領軍であり、進駐軍だった。この条約によって、日本はソ連、中国という共産主義国家の防波堤として米国に協力し、米国は日本に基地をおき駐留軍とて駐屯した。
 朝鮮戦争の休戦が成立する3ヶ月前の1953年4月、次女えみが産まれ家族は四人になった。

 
     
 
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