1941年12月8日、日本軍のコタバル上陸によって大平洋戦争の火ぶたが切られた。その直前の12月3日、シンガポールとマレイ半島を植民地統治していたイギリスはシンガポール華僑抗日闘争指導者だったも林謀盛をリーダーとする抗日組織「華僑義勇軍」を作った。林謀盛は孫文等の国民党の支援者だったが、それまでイギリスには敵視されていた共産党員も幹部に加わった。イギリス軍による軍事訓練を経て、抗日ゲリラ活動に入った。のちに彼らはマレイ共産党として独立を果たしたマラヤを共産主義化するための闘争をはじまる。マラヤ共産党は半島北部の山岳地帯などに拠点を設け、ゲリラ活動を続けた。日本軍は粛清と称して、マラヤ半島に居住する華僑の部落で厳しく検問を繰り返し、抗日義勇軍と思われる華僑とその家族を拷問し、虐殺した。クアラルンプール郊外のヒンドゥーの聖地であり観光名所でもあるバトゥ・ケイブは黒風洞と呼ばれるマラヤ共産党の秘密基地だった。メンバーの華僑の中にはイギリスのスパイになったり、日本軍のスパイとなるものもあり、1942年9月1日、日本軍第五師団の警備隊歩兵大隊五十数名が黒風洞を急襲した。共産党側も武装しており、激しい戦闘が約30分つづいた。この戦闘で共産党側は死者29人、逮捕者15人と惨敗した。日本軍悪者論、日本資本主義悪者論を展開して、謝罪しつづけている日本の自虐的思想の文化人たちはこうした日本軍による共産ゲリラ討伐も、罪のない人々への拷問、虐殺と同列視して非難している。1945年8月15日、日本はボツダム宣言を受諾し無条件降伏した。本国に逃げ帰っていたイギリス人たちが帰ってきて、植民地統治を復活させようとした。マレイ共産党は中国共産党と呼応して、マレー半島の共産化を目指した。マレイ共産党の執拗な抵抗が独立間もないマレーシアの大きな障害となった。そのため、マレーシアは反共国家としてマレイ共産党の駆逐に力を注いだ。平成元年5月19日付けの新聞にタイ南部のマレーシアと国境を接する山岳地帯のジャングルで田中清明、橋本恵之という二人の残留日本兵が生存していたことが記事になっていた。終戦後、マレイ共産党の武装組織に参加した日本人は元日本兵、民間人など合わせて200名ほどだったという。二人は44年にクダ州スンガイ・プタニの陸軍系の日宇南製鉄の社員だった。60年ごろには生存者は4、5人だけだったという。多くは病死したと思われるが、ひょっとしたら、現在も、ジャングルの中でタイからの分離独立運動のためのぶりょくとうそうをしているかのうせいが考えられなくもない。あるいはタイ人として子供たちや孫たちに囲まれてのんびり暮らしているかも知れない。
西鉄ライオンズが日本シリーズ3連覇の2年目、王貞治が巨人軍に入団する前の年の1957年8月31日、マラヤ連邦は宗主国イギリスから独立した1786年。にケダ集のスルタンから東インド会社がペナン島の統治権を得て以来、171年間におよんだイギリスの統治が終わった。マレー人はイギリスによって山村や漁村で自給自足経済によって、その日その日を何事もなくすごしてきた。人口数百人のカンポンの中での通婚を余儀なくされたマレー人社会は従妹や叔父姪、伯母甥といった親族婚によって血が濃くなり様々な遺伝的劣性を引き起こした。マハティール前首相は直接的な表現ではないが、イギリスの統治によって引き起こされた遺伝的劣性による他民族社会に対するマレー人社会の劣勢を間接的に非難している。
第二次世界大戦終了後に戻ってきたイギリス政府は、各民族に平等の権利を与えようとした。マレー人はマレーシアにおけるマレー人の特殊な地位が十分に反映してないとして反対し、統一マレー民族組織(UMNO)を結成した。イギリスはマレー人に政治的優位性を与える案を改めて提出した。内閣の配分も書く民族の伝統的利権によってなされた。首相、内務省、国防相、農村開発相、教育相はUMNO、蔵相、商工相はMCA、労働相、好競技業兼優勢通信相はMICといった具合に配分された。
その後、マラヤ・インド人会議(MIC)、馬ラヤ中国人協会(MCA)ができ、紆余曲折をへて三党によるマラヤ連合党ができて、現在の与党連合・国民戦線(BN)につながっていく。 |