川内先生の奥さんの忍さんが育ったクランはクランバレー(クラン川流域=現在のクアラルンプール首都圏)で採掘された錫の積出港であるクラン港の東、クアラルンプールよりの中国人とインド人の多い商業港湾都市だった。
クランにはジャラン・ジャポンという道路があった。日本人が住みついていた。
今村昌平監督のメガホンで緒形拳が主演した映画『女衒』の舞台はここポート・セッテンハム、現在のポート・クランだ。もっとも撮影の大半はマラッカで行われたが。港町だけに日本人の商人も多く、とうぜんのように貧しさ故に売られ、あるいは騙されて春を販いでいた「からゆきさん」や彼女たちにつきまとい上前をはねていた女衒と呼ばれる男たちもいた。
「からゆきさん」は江戸時代末期から明治時代、大正時代をへて昭和の初めごろまで存在していた。親兄弟のために苦海に身を沈める(街娼婦=売春婦として生きる)のは親孝行と世間では見られていたし、時の政府も自分の娘の売買を容認していた。「からゆきさん」とは「唐行きさん」、つまり、外国を意味する唐(中国)天竺(インド)に行く、外国に働きに行く女性という意味だった。
富国強兵策を推進するためにはイギリスやフランスといった欧州列強から軍艦や大砲などを購入する必要があった。際立った輸出品目のない当時の日本だったが、富国強兵のためには外貨が必要だった。「からゆきさん」たちが身体を売り、送金してくる金銭は明治政府には貴重な外貨だった。日清日露の両戦争に勝った陰の功労者は「からゆきさん」だった。ところが、日本政府は「からゆきさん」を島原地方や天草地方出身者が多かったため、島原族、天草女、娘子軍とよんでいた。しかし、日清日露戦争に勝ち国際的に日本の評価が上がり、一等国を自認するようになって、政府外務省は醜業婦、賤業婦、密航婦などと呼んで「一等国の日本の恥」として蔑んだ。
しかし、彼女たちはロシア人など外国人の目には「正直で親切だ。日本の女性は
諦めがよく淡白だ。金銭をむさぼらず、盗心がない」と写っていたという。文豪サマセット・モームの作品「ニールマックアダム」には「目元にはにこやかな笑みが溢れ、彼女らは部屋に入るとまず、低く頭を下げ、それから行儀正しく鄭重な挨拶の言葉を囁いた」と書かれている。
同じ運命の「からゆきさん」たちの面倒を見て、女親分とたてまつられた人もいる。オロシアおエイ、シベリアお菊、そして山崎朋子の「サンダカン八番娼館」に登場する木下クニもそのひとり。
「からゆきさん」の物語
マレーシア国立文書間に残る文書に明治21(1888)年、「パタリン通りの日本人娼館で天然痘発病2件」というのが、クアラルンプールに残る最も古い日本人に関する記録だ。チャイナタウンには娼館が32あり、日本人所有のものは1軒だけだったが、1990年の娼婦数では中国人533人、日本人24人、タミール人4人、マレー人3人だった。クアラルンプール北部の錫の町ラワンにもクランにも日本人は住み「からゆきおさん」がいた。クアラルンプールには忍さんのお父上がやっていた写真店が何軒もあったらしく、1924年にはKL日本人写真師協会が発足している。
クランに住んでいた「からゆきさん」善道キクヨの物語は、わたしの知人である大場昇氏が『からゆきさん・おキクの生涯』(明石書店=平成13年12月15日発行)と言う本にまとめられている。おキクは大正5(1916)年、17歳のときに売られ、クランの20番娼館で3年間すごした。3年後、キクは自由の身になりシンガポールに行き約10年働いた。イポーで日本人男性と内縁結婚、のちに離別し、インド人と結婚した。第二次世界大戦が始まると、川内先生たちと一緒にインドに抑留され、1946年釈放された。義理尾の息子のインド留学費用を工面するために必死で働いた。しかし、医師となった息子の嫁と気が合わずに失望の日々を送った。
クアラルンプールには明治24年以前 から日本人がいたらしい。クアラルンプールの日本人墓地の門柱には「明治24(1891)年」の文字が残されている。明治27年には邦人互助組織の「厚徳会」が結成された。日本人墓地は日本人葬儀会やセランゴール日本人会が管理するようになった。終戦後、わずかに残った日本人の富木さん(名前不詳)や川内先生の義理の兄に当たる森敬湖さんが墓地の管理をしてきた。昭和30年ごろまで、元「からゆきさん」などクアラルンプールに在住する日本人女性たちがお金を出し合って草取りや清掃作業を行った。昭和55年ごろには20〜30人の元「からゆきさん」がいたという。
クアラルンプール日本人墓地の墓標を見ていると、長崎県島原と熊本県天草地方出身の「からゆきさん」のものと思われる墓標が多数ある。
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