からゆきさんと思しい墓標を見ると、長崎県島原出身と熊本県天草出身者が半数以上を占めることがわかる。若干16歳の天草四郎を総大将とする天草と島原のキリシタン(=キリスト教徒)3万7千人が島原の原城址に立てこもり、時の筆頭老中松平信綱率いる幕府軍12万4千人と戦った。篭城軍は圧倒的な兵力を誇る幕府軍を相手に3ヶ月戦って敗れた。キリシタン兵士はことごとく討ち死に、凄惨を極めた。
徳川時代となり、戦国時代に島原4万3千石を治めていたキリシタン大名の有馬晴信から、息子の直純になった頃、幕府はキリシタンを禁制とした。直純は転封(領地替え)にあい、キリシタンの家臣たちが島原に残った。有馬氏に替わり、奈良(大和)の武将松倉重政が領主となった。見栄っ張りで野心家で上昇志向が強かった重政は着任するや、島原城の築城費用もあり、農民に過酷な租税を課した。重政の子の勝家もこれ以上はないという過酷な年貢のとりたてをした。太閤時代の検地をやり直し、4万石の石高であった島原地方を10万石に、二度目の再検地で13万石近くへと3倍以上に水増ししてしまった。築城のための使役も加わった。年貢を納められない者には拷問が待っていた。生きて地獄を味わうよりも、領主に戦いを挑み、死んでキリストの御許に行こうという決死の農民たちが結集した。
熊本(=当時の肥後宇土)の領主もキリシタン大名の小西行長が背j期が原の戦いで没した後、肥前唐津藩飛び地となった天草は唐津藩主加藤清正の領地だったが、キリシタン嫌いの加藤清正はキリシタンが多い天草を返上した。替わって領主になったのが秀吉の家臣寺沢広正の子広高だった。広高は秀吉時代に行われた検地をやり直し、4万2千石に修正した。天草は島の周囲を断崖が囲む、貧しい土地柄だった。実情からは2倍もかけ離れた年貢を強要されることになった農民たちの困窮も極限状態にあった。島原の農民たちの「ともに神の御許へ」の掛け声に呼応して、天草島原の乱がはじまった。
島原半島は雲仙だけの麓のシラス台地で元々農耕に適さない土地だった。天草諸島も同様で土地は豊饒とは正反対の疲弊した土地ばかりだった。台風も多く、農民はとことん貧しかった。天草地方の人口は天草島原の乱のあと8千人に激減した。乱のあとに天草の代官となった鈴木重成は行政機構を立て直し、寺社仏閣を建立するなどして、農民の心のよりどころを再構築した。重成は再度検地をして老中松平信綱に天草の石高を半減するように建議した。しかし、幕府はこれを受け入れなかった。重成は農民の塗炭の苦しみを伝えんとして、江戸の自宅で割腹した。これを知った幕府は天草の石高を半分の2万1千石に減らしたという。天草の農民たちは鈴木重成を神として敬ったという。
幕府によるキリシタン弾圧はつづいた。天草島原の乱のあとも、火山の爆発、台風の通過など天災の多い天草地方、島原地方の貧困は変わらなかった。江戸時代が終わり、明治維新政府となっても状況は好転しなかった。農民の飢餓と貧困は昭和30年代まで婦女子の人身売買を生みつづけた。東北地方の農民の人身売買は主に天候異変による凶作が原因だったが、天草島原地方の人身売買は貧しく痩せた土地と自然災害によるものでほぼ慢性化した貧困が原因だった。
19世紀末、’東南アジアには約5千人の“からゆきさん”がいたといわれている。
日本に帰っても、何年も何十年も家族の生活を支えてくれた大恩人であるはずの
”元からゆきさん”を暖かく迎えてくれる故郷はなかった。“からゆきさん”という職業にいたということで、日本の社会は汚れた女、不浄の女として彼女等を迎えた。家族も同じだった。家族のために身を売った少女たち、上手い話でだまされて売られてしまった少女たちもいた。莫大な借金を背負わされ、借金の返済のために働いた。余った金で衣服を買い、残った金を日本に送った。仮に10万人の「からゆきさん」が年に1000ドルずつ送ったとしても1億ドル、その何倍もの金が送られていたのだから、富国強兵を目指していた明治維新政府には貴重な外貨収入だった。お金をいくら送っても日本にいる家族が豊かになるわけではない。砂漠に水を蒔く程度でしかないが、送り続けた。そんな「からゆきさん」の多くがマラリアや梅毒などの性病、日本脳炎、食中毒などの感染症で死んだ。中には、地元の金持ちや欧米人に見染められて玉の輿に乗った「からゆきさん」もいた。
元からゆきさんにとって故郷は日本ではなく、朋輩の住む、あるいは神に召された朋輩たちの眠るシンガポールであり、クアラルンプールであり、マラッカ、イポー、サンダカンでしかなかった。
クアラルンプール日本人会が1990年に出版した『クアラルンプール日本人墓地/写真と記録と改修事業』に、川内光治先生が「KL日本人墓地ー戦後40年をふりかえってー」という一文を寄せている。その中に「昭和30年前半ごろまでの日本人墓地を管理してくれたのは、からゆきさんとして来馬していた存命中の方々でした。皆でお金を出し合っては草取りなどをしてもらい、墓地の周りをきれいにしてくれていたものでした。そのとき一番若かった方も一昨年、九十三歳で天寿を全うされました。こうしたからゆきさん達も、日本人墓地がつくられた当初は、その家族の方を含めて、かなり多くの方々が埋葬されていたようです。しかし、後の方々は夫がクリスチャンの場合はクリスチャン墓地に埋葬されており、ほとんどの方はこの日本人墓地に埋葬されておりません。」と書いている。行間からは、日本人墓地を身銭をはたいて管理してくれた元からゆきさんたちへの感謝の念がにじみ出ている。
又、同書でマレーシアの日本人社会の研究者として知られた原不二夫氏が、クランで日本人墓地を発見した時のことを書いている。「墓碑は深い草におおわれて都合五基六人分あった」として、墓碑を見ると三人がからゆきさんらしい。
*故稲田ミチノ 行年四十七才 昭和八年十二月二十六日死亡 本籍 長崎県南高来郡湯江村向ノ原
*故稲田イセ子 行年四十七才 昭和十二年五月二十八日死亡 南無阿弥陀仏
*故橋本伊知於之墓 行年三十六才 昭和十年一月十一日歿 長崎県南高来郡大三東村
と書かれていた。森敬湖さんや川内光治さんに聞いたら、稲田ミチノとイセ子は姉妹で、ミチノが農園主のマーチンという名のドイツ人又はオランダ人と結婚して死亡したあと、イセ子が後妻になった。妹も船で帰国途中に病死し、引き返してクランに埋葬した。
ふたりはからゆきさんと推察されたが、原氏の調査では、クランには稲田商店という商店があり、店主は稲田嘉八(長崎県南高来郡出身)という記録があり、なんらかの関係があると思われるとしている。
故橋本伊知於はおそらくからゆきさんだろう。
数百人いたとされるクアラルンプール周辺に在住したからゆきさんも、1980年代後半には全員、苦しみに満ちた人生に別れを告げてしまった。家族を愛し、日本を愛し、朋輩たちを愛し、ことごとく一方通行の愛に終わったからゆきさんの魂の安らかならんことを祈る。 |