その二十二
北九州市の公害。市と企業と市民が力を合わせて
日馬プレス 渡邉明彦
 

 北九州市の名誉のために補足するが、その後の自然体で取り組んだ公害対策と環境改善で大きく改善されている。
 八幡製鐵所を中心とした重工業によって北九州工業地帯を形成し、日本の高度成長期の経済発展のけん引役だった北九州市は光化学スモッグが毎日のように発生し、芳情の肺炎による煤煙、粉塵・悪臭などによる大気汚染、工場の排水による水質汚濁がすすんだ。市民生活は公害によって深刻な影響を受けていた。
 高度経済成長の牽引役という自負が、重工業や化学工場などの企業の意識を傲慢にした。水俣でも、四日市でも、川崎や阿賀野川流域でも公害病が発生し、大勢の人たちが苦しんだ。行政も経済成長のけん引役の腰に縄をつけるのは日本の発展を阻害することになるといった遠慮もあり、(もちろん、お見逃し料、お目こぼし料という類の賄賂が企業から役人に渡っていた可能性もあるが)行政は企業の公害垂れ流しに寛大だった。ほとんどの大手マスコミも公害病叩きには腰が引けていた。公害病反対の世論が沸きあがるまで事態を見守るだけだった。公害病に向き合った医師や病院、市民団体、写真家によって公害病の実体が少しづつ明らかになっていった。水俣病、イタイイタイ病、スモン病などの原因が追究され、長い歳月を要して行政が重い腰をやっと上げ、企業がいやいや従うようになった。その頃になってやっと大手マスコミも取り上げるようになった。

 幸か不幸か、北九州市では見逃しようもないほどの深刻な公害の現実があった。企業も行政も逃れようがないレベルだったことが幸いだったのだろう。
洞海湾は「死の海」と呼ばれるほど汚染された。学校などにある屋外のプールは新しい水を売れた数日後には水が真っ黒になったという。子供や老人を中心に気管支喘息患者が多く発生した。公害のデパートの様相を呈していた。
 しかし、あれほど全盛を誇った重工業も社会や科学・工業技術の進歩によって衰退していった。
1962年に「煤煙規正法」が制定された。規制する一方で工場などに対して煤煙発生施設の診断と指導、管理者の技術指導も行われた。1970年には市内9ヶ所に、24時間体制の公害監視システム「公害監視センター」が設置され、スモッグ注意報(警報)が発せられるようになった。行政と企業、市民が一体になって迅速に取り組んだ。
 水質汚濁も著しく改善され、廃棄物などの再利用などにも積極的に取り組んで、「人間が健康に生活できない街」からいち早く脱却し、「健康に住みやすい町」へと変貌を遂げつつある。

 暖かなマレー半島生まれの奥さんの忍さんが寒さに弱かったこともあるが、川内先生ファミリーは公害などとは無縁で、自然がいっぱいのマレー半島に一刻も早く戻りたいと願うようになった。

 
     
 
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