その二十三
日本から忍さんの故郷マレー半島へ
日馬プレス 渡邉明彦
 

 マラヤ連邦に戻ろうと思いたった川内ファミリーに大きな問題があった。マレー半島で生まれた奥さんの忍さんには、独立したばかりのマラヤ連邦の国籍が付与されていたが、川内先生と日本で生まれた二人のお子さん光江さんとえみさんがマラヤ連邦に戻るには、移住の手続きが必要となった。
 マラヤ連邦が独立した翌年の1958年秋、川内先生はトゥンク・アブドゥル・ラーマン首相に手紙を書いて送った。マレー半島で生まれた忍さんが、日本の気候や生活習慣が合わないで苦しんでいる。夫である自分と二人の娘と一緒にマレー半島に戻りたいと言う趣旨を伝え、入国許可の陳情を行った。実際、忍さんに直接お話をお聞きしても、日本での生活した頃のことはいい印象を持っていないことが痛いほど感じられた。九州とはいえ、冬は寒く、熱帯地方で生まれ育った忍さんにはつらい気候だったようだ。電気洗濯機のなかった時代。冬の寒さの中で、盥(たらい)と洗濯板をつかって、固形石鹸でゴシゴシ洗うというのはたしかにつらい作業だ。
 女性だから、外国人だからといって差別されることがなかった子供時代の自由な環境に比べ、少し前まで軍国主義だった日本は男性優先社会であり、どちらかというと英語、中国語が得意で日本語がいま一つで、日本的な生活習慣や対人関係に疎い忍さんを異質な存在として白い目で見られたりしたようだ。「日本人じゃあないみたいね」、「たぶん、朝鮮人よ」、近所の人たちが陰でヒソヒソ話をしているのが、かすかに聞こえてくる。まして、川内先生の故郷である鹿児島では、義父や義母といった身近な親族の口にする鹿児島弁は日本で生まれ育った関東人のわたしにも難解で、聞き取りずらい。また、当時の鹿児島には、義父がタバコを吸おうという仕草をしたら、息子の嫁がすかさず灰皿を差し出さなければならないと言うような男尊女卑の風習が残されていたという。マレー半島の比較的裕福な家で生まれ育った忍さんには「そういうことはアマさん(女中さん)の仕事という感覚だったのだろう。箸の上げ下ろし、ご飯の盛り方、茶碗の持ち方にいたるまで、つまり日常茶飯事のことごとくが鹿児島風という異質な生活風土に馴染まなかったのだろう。
「自分だけでもマレーに戻りたい」と願う忍さんのつらさを思い、川内先生は悩み、八方手を尽くした。

 マラヤ連邦政府は、1941年12月8日の日本軍上陸時以降にマレー半島に滞在した人たちは「日本軍に協力した」と見なされて再入国を認めない方針になっていた。川内先生は日本軍がコタバルに上陸したその日、イギリス軍に拘置され、インドのキャンプに終戦直後まで抑留されていたので、「日本軍とは関係はなかった」と主張することができた。
 マラヤ連邦には川内夫人の偲ぶさんの姉の夫、つまり義兄にあたる森敬湖氏が残っていた。森氏はクアラルンプールのメソジスト・ボーイズ・スクールの校長を10年間務めて、立派な教育者として華僑だけでなくマレー人の間でも尊敬されていた。忍さんのすぐ上の姉である君江さんの娘さんであるエンドンさん(2005年10月20日逝去)はのちにアブドゥル・バダウィ首相夫人になった。故エンドンさんのお父さんのダト・マームドさんの存在も大きかった。
 手紙ののやり取りで川内先生はラーマン首相の移住許可内諾の知らせをうけた1959年はじめ堺町の診療所の整理と、クアラルンプールに行ってから開く歯科診療所の医療設備機器一式をそろえ始めた。
 1959年2月、待望の移住許可が正式に下りた。入国期限は3月14日まで。ギリギリに間に合う3月2日、シンガポールからポート・セッテンハム(ポート・クラン)を経由してアフリカに向かう貨客船北海丸に神戸港から乗船した。シンガポール行きの貨物船は多くあったが、船医のいない船には旅客を乗せることができないという規則があって、北海丸まで待たされてしまった。
 思いがけず、旅客定員6人の客室を親子4人で使うという幸運に恵まれた。しかし、忍さんは一人船酔いに苦しんでいたという。ただ、停泊した香港と西貢の港では、治安がよくないという理由で上陸できなかった。シンガポール港にお着岸したのは3月13日。入国期限は翌日。「大丈夫かな?」という不安を入国審査のイミグレの係官に問うたところ、「シンガポールに上陸すればOK」と言われて一安心した。冷静に考えれば、当時のシンガポールはマラヤ連邦の一部で自治州の扱いだったから当然といえばとうぜんだが、シンガポール独立の気運は高まっていた。(1965年8月9日独立)
 川内ファミリーは中国人の友人の家に逗留した。日本軍がシンガポールを占領して、反日運動をしていると思われえる中国人、ただ、怪しいという理由だけで数千人とも数万人ともいわれる人たちを逮捕し、拷問にかけ、虐殺した記憶から14年たっていた。まだ記憶に生々しいものが残っている。訪ねていった友人の家ではお母さんに「息子が、日本軍の粛正(正しくは粛清)があった日に連れて行かれたきり、帰ってこない」と言われたという。親日家の友人だっただけに残念でたまらないと川内先生は悔しがったという。今のシンガポールからは信じられない話だが、1959年当時のシンガポールの食糧事情は非常に悪く、とくに米は一日一食分程度しか配給されなかった。川内先生ファミリーもミーフンを炒めたミーフン・ゴレンを毎日食べたという。
 シンガポールに3日停泊した北海丸はがポート・セッテンハムに着岸したとき、忍さんの二人の姉の夫である森敬湖さんやダト・マームドさん、税関長などがそろって迎えてくれた。税関超の家で一休みして、曲がりくねった道を車に揺られてクアラルンプールに着いたのは夕方でした。森さんの家にしばらく(約2ヶ月)逗留させてもらうことになり、家を探したり、開設する診療所の営業許可を得るためにと奔走した。
 診療所開設の許可がでたのは1959年12月だった。翌年の1月1日、かって交易商人たちや鉱山主たちが闊歩して栄えていたバツー・ロード(現在のジャラン・トゥンク・アブドゥル・ラーマン)のチャイナ・インシュランス・ビルの4階に診療所をオープンした。    
ジャラン・トゥンク・アブドゥル・ラーマンには、現在も英国植民地時代の面影を残した、美味しいステーキハウスとして有名な『コロセアム』をはじめとした建築物が残っている。

 
     
 
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