その二十四
申請書類が行方不明!国籍取得に20年

日馬プレス 渡邉明彦
 

 診療所でつかう器具は日本から持ってきたものだけで済んだ。ただ、電圧が違うので変圧器が必要だった。

 マレー半島で生まれたしのぶさんは、国籍を属地主義(マレー半島で生まれた人にはマラヤ連邦の国籍を付与するという考え。・アメリカ合衆国も同じく属地主義をとっているが、日本は一定の基準を満たした特例を除いて、両親の一方が日本国籍を有する場合のみ日本国籍が付与される。)によるマラヤ連邦だったので問題はなく、光江さんとえみさんの二人は、国籍を有する人の子供であるから、市民権(国籍)を認可されるのは容易だった。義兄に当たるダト・マームドさんの尽力もあって娘二人の国籍取得は早かった。

 ところが、永住権(パーマネント・レジデンス=PR)をもっていても、日本人である川内先生は仕事をするには労働許可(ワーク・パーミット)が必要だった。ワーク・パーミットも歯科医院の営業許可も問題なく認可された。独立間もない若い国にとって、必要性の高い職業ということだったのだろう。川内先生は、ふつうはPRをとって2年後には国籍を取得できると聞いていた。
しかし、2年たっても音沙汰なし。気になってイミグレーションに行って訊ねてみたら、「マレー語の試験に合格しなければ許可されない」と担当の役人に言われた。マレー語が得意ではない川内先生はひじょうに困ったらしい。親しくしていたマレー人の友人に試験の予想問題を想定してもらい、マレー語の小論文を4種類、、丸暗記したという。予想問題を宛てるのを「山を賭ける」というが、賭けた山が当たらずに失敗を繰り返した。3,4回目の試験に「どうして、マラヤにいたいのか?」という設問がでた。4つの丸暗記論文のテーマの一つが的中した。「しめた」と思い、絶対合格の自信を持って試験を終えた。

 すぐくるはずの合格通知が来ない。いつの間にか一年過ぎ、二年がすぎた。「どうしたのだろう」と思い、イミグレーションにいって訊いたら「まだ、審査中です」ときわめてマラヤ的な答えが返ってきた。これはわたし(筆者)たちメディアで働く外国人記者でも同じようなことがあったので、「変わらないな」と思いました。メディアは内務省の管轄なので出版ライセンスもワーク・パーミットも内務省の許可が必要になります。ワークパーミットの更新申請するときは、いったんイミグレーションに申請し、その書類が内務省に行き種類の山の中に積み上げられてしまう。半年待っても一年待っても、一年半待っても、ビザの更新ができないということが何度もあった。最近ではずいぶんスピードアップしてありがたいと思っている。

 川内先生はパスポートの有効期限がすぎると、ワーク・パーミットを切り替えてもらいに行き、シンガポールなどの外国に行くときにはリエントリー・ビザが必要だった。実に面倒くさいと思ったが、イミグレーションの担当官は「日本の出入国管理法の外国人に対する扱いはどうですか?」と逆に訊いてきたという。今も昔も日本の出入国管理の厳しさは冷酷そのものだ。マレーシアと日本の関係が良好になって、かっての厳しさはなくなり、相互にビザなしで出入国できるようになった。もっとも、その後、日本におけるマレーシア人の不法滞在、不法就労が社会問題化して、数年前から日本に行くマレーシア人はビザの取得が義務づけられている。

 外国人による日本国籍取得はそれほど困難な作業ではない。しかし、不法滞在、不法就労で5年,10年以上日本に滞在した外国人に対してはひじょうに厳しい。米国やヨーロッパ諸国が不法入国者であっても、長期間、善良な市民として生活してきた外国人には国籍を取得させているのに比べて、非常に杓子定規で冷酷な扱いをしている。島国でほぼ単一民族で構成されている国家の日本では、潜在意識の中に外国人を排斥しようという意識があるのかもしれないし、外国人による凶悪犯罪が増えていることから、経済的理由で日本に不法に入国した人への処遇がきつくなっているのだろう。一方で、犯罪を行う意可能性が高い中国人には入国ビザを免除するなどという決定もしている。日中友好もいいけれど、中国人を無差別に入国させるというのは間違いだ。だったら、マレーシア人にビザ取得を義務付けている規則を撤廃するほうがいい。現在の経済水準にある中国系マレーシア人が日本に不法滞在する理由は希薄だ。
 
 川内先生だけ国籍が取得できない状況が、何と20年もつづいた。「いくらなんでも、これはおかしい」と姪(エンドンさん)のご主人のダト・アブドゥラ・バダウィ(現首相)に頼んで調べてもらった。そうしたら、川内先生の国籍取得申請書類一式が行方不明になっていることが分った。大急ぎで、種類を作り直して提出した。ダト・アブドゥラ・バダウィが当時の内務大臣だったダト・ムサ・ヒタムに掛け合ってくれて、約一ヶ月で国籍取得が認可された。ムサ・ヒタム大臣は「20年もかかってしまいましたね」と笑っていたという。もちろん、腹の中では部下の役人のだらしなさを情けなく思っていただろう。
 
 国籍問題では紆余曲折があったものの、川内先生のバツー・ロードの歯科診療所は順調にスタートし、日本では小学校6年生だった長女の光江さんは英語力の問題でメソジスト・ガールズ・スクールの4年に編入学し、次女のエミさんは近所の幼稚園に通いはじめた。姉妹とも英語はまったく分らずにたいへんな苦労をしたという。とくに小学生の光江さんの苦労は大変なものだった。それでも、持ち前の明るさと頑張りで2年後には、自分の本来の学年に戻れるまでになった。中学と高校(マレーシアの学校制度でいうフォーム5まで)はメソジスト・ガールズ・スクールに通い、フォーム6は義兄の森敬湖氏が校長を務めているメソジスト・ボーイズ・スクールで学んだ。
 帰国船で戻った長崎で生まれ、大分で育って12歳になっていた光江さんにはつらかったという。泣いて日本に帰りたがった。忍さんは生き返ったように元気になった。川内先生は一言も愚痴は言わなかった。けれど、娘たちから見ると、「お父さんの心境は複雑だったと思う。やっと、自分の歯科診療所をオープンさせて、さてこれからというときに、またマレーで一からやり直し。つらかったと思う」と父の心を思いやっていた。でも、それは自分たちが、お父さんがマレーに戻った頃の年齢になって初めて気づいたことだった。「わたしたちは若かったから、しばらくすると学校にも慣れて、のん気に学校に学校に通っていたわね」と語っている。

クアラルンプールでの生活がはじまった

 日本からマレーに戻ってきて感じたのは、同級生たちや先生がまったく差別なしに同じように扱ってくれたことだ。日本では、お母さんの忍さんが差別に苦しんだ。あるいは、日本語を忘れかけていた忍さんの意識が、逆に自分を差別されていると思い込ませていたのかもしれない。実際に、光江さんの父兄(保護者)参観日にはお母さんではなく、お祖父ちゃんがやってきたという。担任の先生がお祖父ちゃんに「どうしてお母さんが来てくれないんですか?」と訊ねたことがあった。このときにお祖父ちゃんは「どうせ、日本語が分らないんだから」と答えると、先生は「だからこそ、もっと外にでて欲しいんです。そうでないと外国人の思われてしまう。参観日に出てきて、子供が上手く答えられるかを心配したり、先生にほめられたら喜んだりすれば、他のお母さんたちも“ああ同じなんだな”と思ってくれるのに」とどんどん表に出るように勧めてくれた。お祖父ちゃんからその話を聞いて、はじめて参観日に出てきてくれるようになったという。光江さんは「あの頃のお母さんは、今で言う閉じこもりだったもかも知れない」とニヤッっと笑った。「でも、ひょっとしたら、お祖父ちゃんが外に出さなかったのかもしれない。昔の鹿児島はそんな雰囲気があったでしょ」と、お母さんの弁護も忘れない。日本語が上手く話せない、よく理解できない、息子の嫁を世間に晒したくないという思いは、鹿児島に限らず、年寄りは日本ではどこでもそう考える時代だった。

 フォーム6を終えた光江さんを川内先生夫婦はオーストラリアの大学に留学させたいと考えていた。しかし、光江さんは日本の大学に進学することを強く望んだので、本人の意思どおりに日本の大学に進学させた。光江さんは子供時代、小学校6年まですごした日本につよい愛着があったのだろう。また、日本の気候風土が光江さんには合っていたのだろう。日本でごくふつうの家庭を営んでいる光江さんの自宅をしばしば義従兄弟のアブドゥラ・バダウィ夫妻が供もつれづに訪れている。従姉妹のエンドンさんだけでなくご主人のアブドゥラ・バダウィ氏(現首相)も、日本のふつうの家庭の雰囲気が大好きだったのだろう。プトラジャヤの首相公邸には日本間があり、日本の着物が飾られているという。光江さんは「(公邸の)インテリアはエンドンそのもの。(従姉妹の)エンドンはかわいくてキュートできれいなものが好きでした。とてもセンスがよくて」と夭折されたエンドンさんの才能を惜しでいる。「(アブドゥラ首相はわたしたちにとって)とても気さくな従姉妹のご主人。ぜんぜん偉ぶらないし、わたしたちと一緒の時にはまったく政治には触れないから、ふつうの人という感じ。でも尊敬しています」と語っている。

 妹のエミさんは小・中・高校ともメソジスト・ガールズ・スクールに通った。お父さんと同じくマレー語が得意でなかったエミさんは、フォーム6から必修となったマレー語の授業には大変な苦労をしたらしい。その結果、エミさんに言わせると、日本語、英語、マレー語の三種類の言語が理解できるようになってよかった」という。皇太子ご夫妻(現在の天皇皇后両陛下)がシンガポール、クアラルンプールを1970年2月にご訪問された。若かった皇太子様も美智子妃殿下も積極的に地元の人々の中に飛び込んでいってお話をされた。美智子妃殿下がエミさんが通っていたメソジスト・ガールズ・スクールを訪問されたとき、在校生の中でたった一人の日本人だったエミさんは、美智子妃殿下と二人で親しくお話をする僥倖に接した。このときの写真を見せてもらった。忍さんは「この写真はエミにとって宝物よね」と自慢げだった。エミさんは美智子妃殿下に拝謁して二人でお話をすることができたときのことを「妃殿下のやさしさに触れて感激しました。日本人として誇りをもつことができました」と懐かしく語っている。

 妃殿下とエミさんが二人で写った写真を、引き伸ばしてエミさんに贈ったら、よろこんでくれた。

 時間外にはセント・ジョーンズ・スクールにも通っていた。エミさんはマラヤ大学に入学し、卒業後にはマラヤ大学に入学するための予備教育課程で教鞭をとるようになった。しかし、数年後、マレー系の後輩が同じ職場に入り、エミさんの上司になったので、納得がいかずに大学をやめた。

 その後、エミさんは日本興業銀行(富士銀行と合併し、みずほ銀行、みずほコーポレート銀行となった)のKL支店長に乞われて銀行勤めとなった。現在もRHBバンクに勤務している。

 
     
 
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