第二次世界大戦の敗北でほとんどの日本人は日本に帰って行った。マレー半島やシンガポールに残った日本人は、マレーで生まれて永住権を持つものと、マレー人やインド人などと結婚した元からゆきさんなど、ごくわずかだった。
1951年1月末、東洋汽船の「信洋丸(1万トン)」がシンガポール港沖に投錨した。選手には日の丸はなく連合軍最高司令部の指定した仮の旗を掲げていた。日本からシンガポールへは小野田セメントの日本製セメントが、帰路はバツパハの鉱山で採掘されたボーキサイト鉱石を積み出すためだった。戦後初の日本の貿易船はなかなか許可されなかったという。同行した日本のシンガポール総領事館館員だった篠崎護氏の元へはシンガポール在住の中国人が数多くいた。篠崎氏は総領事館に在任中、地元の中国人たちと親交をもち、彼らを守るろうと努めた。抗日運動の中国人からも信頼されていたという。
日本との交易は細々とだが再開された。しかし、日本人の上陸は許されなかった。篠崎氏も船から下りて、シンガポールの土を踏むことはできなかった。
1952年に7人の日本人記者が上陸を申請したが却下された。唯一毎日新聞の青木繁特派員だけが許可され、マレ‐半島からシンガポールへ約2週間滞在した。ビジネスの世界では1952年にシンガポール入国ビザがなかなかでないでいた鋼管鉱業の清水氏がインドのボンベイの英国高等弁務官事務所(大使館のようなもの)でビザを申請したら許可されたという。シンガポールには戦犯裁判の通訳をしていた佐々木氏、ゴム取引の市場調査に来ていた加商の橋本氏、鋼管鉱業の林不二男氏などがいたという。
1952年には日本の商業代表団が東南アジアを歴訪し、シンガポールにも滞在した。シンガポール中華総商会は「貿易だけの話し合いなら」と歓迎したが、代表団は日本政府の貿易政策の代弁に終始して、失望をかった。同年9月17日、戦前に横浜正金銀行北支総支配人だった二宮謙氏がシンガポール駐在日本国絵領事に任命され10月18日、館員3人とともに着任した。しかし、英国植民地を代表する役人は出迎えることもなく、外交官としての待遇は得られなかった。しかし、二宮氏は東南アジアの学生約30人に日本で工学、医学などを学ぶ奨学金を与える計画を発表、地元の人々の理解を得るために誠心誠意、奮闘した。総領事館の事務所はなかなか決まらなかったが、日本文化のすきなアラブ人アルカフ氏夫人の邸宅を借り受けてオープンした。
シンガポール日本会が発足
翌53年3月共同通信がロイター通信社内に支局を開設、日本のメディアの特派員たちの活躍がはじまった。54年には沈没船の解体作業員などの居住が許可された。シンガポールに事務所を開設する日本企業がふえてきた。ただ、反日感情は根深く残っており、この税関でも、日本の黒いパスポートは後回しにされたし、買い物をしていると遠巻きにした群集の中から「馬鹿野郎!」などという罵声が聞こえてきた。6月、マレー半島で初の銅鉱山開発化医者が日英合弁で認可された。前述の鋼管鉱業の林不二男氏などがマレー半島で調査を行った。
戦争前に日本の呉服屋として日本人社会の中核を担っていた越後屋の番頭だった福田庫八氏は越後屋最高のために奔走し、1955年11月9日、シンガポール当局の許可を得て日本の繊維製品を扱う商店として以前と同じように開店した。また、55年から56年にかけて、日本からの雑貨やセメントの輸入が許可されるなど交易制限が解除されつつあり、さらに、日本人の入国制限が大幅に緩和されたことがきっかけとなって、日本の商社や代理店が次々に開設された。
昭和30(1955)年ごろまでは単身駐在者が多かった。そのせいで日本人同士で生活上、いろいろな面で助け合うようになった。日本人会の復活設立準備の発起人会が開かれ、親睦や互助会的な役割のほか、日本人墓地の管理、シンガポールに初寄港する南極観測船『宗谷』の歓迎準備などが話し合われた。JETRO、朝日新聞、安宅産業、第一物産、大同洋紙店、越後屋、江商、伊藤忠、三菱商事、森岡興業、丸紅飯田、日綿実業、岡谷鋼機、住友商事、滝定、東洋綿花、木下商店、松倉商店の23社が進出していた。
その頃のクアラルンプール
昭和32(1957)年8月31日マラヤ連邦が独立し、日本国大使館もクアラルンプールに設置された。1959年10月、東京銀行(現在の東京三菱UFJ銀行)の支店が開設した。その頃から日本の商社が次々と進出し、60年ごろにはほとんどの商社の事務所がクアラルンプールにお目見えした。それまで、10人前後にすぎなっかった在留邦人数は50人を突破し,なおふえつづけていた。商社の駐在員たちは新しい市場に日本製の商品を売り込むことに躍起になっていた。もちろん、日本で売れそうなものを発見すべく目を血走らせていた。
商社間には「珊瑚会」というグループができた。鉱山技師たちは独自の鉱山を開発しようと秘密裏に動いていた。ここでも単身赴任者が多く、ほとんどの駐在員たちは旺盛な闘志で地震を鼓舞しながら孤独と戦っていた。
しかし、未開の地を行くパイオニアたちはしだいに互いに声をかけ合い、助け合うようになっていった。大使館もふくめて、日本人会設立について語り合いはじめた。歳月はかかったが、次第に気は熟し、63年に設立準備の動きが激しくなった。
川内先生ファミリーがマラヤ連邦、クアラルンプールに帰ったのは1959年3月、クアラルンプールに日本人がふえはじめたころだった。大使館と政府関係機関、銀行や商社、合弁企業、そして、川内ファミリーや義兄の森敬湖ファミリーなど永住者たちのグループなどから、代表者が出されてジャパンクラブ設立のための世話人会ができあがった。マラヤ・ノザワ・アスベスト工場で設立総会が開かれ、満場一致でクアラルンプール日本人会、ジャパンクラブが発足した。会員数は法人27社、個人88人だった。64年5月にはクラブハウスも開所した。 |