川内光治先生ファミリーがクアラルンプールに戻ったときには、マラヤ半島に在留する日本人は数えるほどだった。
川内先生ファミリーは奥さんの忍さんの姉の嫁ぎ先である森敬湖さんファミリー、もう一人の姉であるアブドゥル・バダウィ首相夫人の故エンドンさんのお母さん、そして、歯科医の天藤先生とお母さんくらいだった。
森さんはマレーシアの初代首相のトゥンク・アブドゥル・ラーマン氏と同級生で戦前からサッカーの名選手として有名だった。本来なら川内先生と同じく日本に退去する状況にあったが、サッカーの仲間からの嘆願書によって帰国命令は撤回されたという。森氏はメソディスト・ボーイズ・スクールの校長として、サイド・ハミド外相など多くの優秀な卒業生を輩出した。森先生のメソディスト学校も川内先生の二人の娘さん、光江さんエミさんの通ったはクリスチャンの学校であったが、イスラム教徒のマレー人も多くいたけれど、中華系もインド人もマレー人もオープンで、何人であろうと誰も気にしないおおらかさがあったという。当時のマレーシアの雰囲気のことを川内先生の長女の光江さんは「切りdスト教徒が聖書の勉強をしている、一方でマレー人生徒はコーランを勉強していました。マレー人の女性ともスカートを身につけて、一緒にスポーツをたのしんでいました。日本人は川内家と森家の子供だけだったけれど、まったく違和感はなくて、今考えると、ほ
んとうにおおらかだった」と懐かしそうに語っていた。
「おかげで、マレー語、中国語、英語、日本語など最低でも三カ国語を理解できるようになった。そういう環境だったから優秀な同級生も多くて、女性弁護士になった人が何人もいる」とマルチ・リンガルの利点を強調している。
川内ファミリーは森家に居候した。川内先生は診療所開設許可が出るまで、忍びさんの同級生だった天藤さんの診療所でアルバイトして日銭を稼いでいた。天藤さんの診療所は現在もある。
森氏はどちらかというと寡黙な人だったという。そして、森氏も天藤氏も日本語が余り得意ではなかったと光江さんはいう。「だから、父(川内光治先生)が、マレーシアに来る日本人の面倒を見ていた。本来、大使館や総領事館がやるべき邦人保護を日本語が得意な川内先生がやらざるを得なかった。
年に一度、正月に、クアラルンプール近郊に在住する日本人が集まって、お雑煮を食べ、おはぎや桜餅などの日本の菓子を食べる機会があった。そのときなると日本人のおばあちゃんたちが大勢あつまってきた。ふたりの娘の目には「(お父さんは)おばあさんたちとやさしくつき合い、面倒をみていた」と感じた。おばあさんたちは好んで日本の歌を歌った。美空ひばりの「りんご追分」。三橋美智也の「」を好んで歌った。そして、ひとりが双葉百合子の「岸壁の母」を歌うと、ほぼ全員が涙をとめどなく流していたという。誰よりも日本への望郷の念がつよかったのだろう。そして、「自分にも故郷で待ち続けているお母さん、お父さんがいてほしい」と言う切なる思いと、「日本には、『からゆきさん』だったわたしたちを誰も待ってはいない」という現実の狭間で彼女たちは残酷な現実と悲惨な自分たちの運命を恨んだことだろう。『からゆきさん』の送ってきたお金で生活を支えてきた親族も、身内に元『からゆきさん』がいて、近くに住んでいることを恥じて隠そうとしたらしい。彼女らを温かく迎えてくれる肉親はいなかった。
この連載をわたしに依頼した御手洗誠一氏は「川内先生はこのおばあさんたちと親しかったし、よき理解者であり、相談相手でもあった。」と言っている。しかし、川内先生はご自分の娘さんたちには『からゆきさん』の話をしなかったという。おなじ女性である光江さんやエミさんに親兄弟のためにわが身を売らなければならなかった『からゆきさん』が、老いてなお疎まれているという惨めな生涯を伝えるには忍びなかったのだろう。
のちに光江さんは彼女たちが『からゆきさん』であったことを知った。現地の人や在留邦人と結婚して子供たちに困れてしあわせに生活している人も大勢いたが、50代60代の女性には一人暮らしが多かったという。彼女たちの中には過去を忘れたい人が多かった。「彼女たちは子供に日本の名前をつけていました。日本語はできませんでしたけれど、利発な子が多かったなあと記憶しています」と光江さんはいう。日本の名前がついているけれどマレーシア人となってしまった日本人二世、三世が今も大勢いるに違いない。
アブドゥル・バダウィ首相ご夫妻のこと
御手洗さんは川内先生から「この人は有能な政治家だよ」とマレー人の青年を紹介された。川内先生の姪っ子のエンドンさんのご主人のアブドゥル・バダウィー氏だった。「あのときは、まさか何十年後に首相になるなんて思ってもみなかった」と残念がっていた。おかあさんの忍さんにとっては姪の、二人の娘さんにとっては従姉妹のご主人であるアブドゥル・バダウィー首相の大ファンだ。その理由の一つがアブドゥラ首相は本当の意味で日本の伝統文化を愛し、理解しているからだという。光江さんは「何も飾らない美しさ、侘び、寂(さび)という日本人の心の奥に横たわっている” 無常観”が本当に分る数少ないマレーシア人というよりもアジア人の一人だ」という。「(エンドンさんとふたり)本当に仲のいい夫婦だった。首相だというのに気どらない、まじめすぎるいい人」というのが光江さんのアブドゥラ・バダウィー像だ。
日本サッカーの大恩人。トゥンク・アブドゥル・ラーマンと川内先生
マラヤ連邦にサッカー協会ができたのは1933年で大英帝国(イギリス)のイングランドの一地域として扱われた。正式に国として国際サッカー連盟(FIFA)に加盟したの独立する前年の1956年だった。学生時代にサッカー選手として活躍したトゥンク・アブドゥル・ラーマンは独立に向けて多忙を極める合間を縫って1951年にマラヤ・サッカー協会会長に就任し、アジア・サッカー連盟の創設を働きかけていた。
川内先生夫人しのぶさんのお姉さんのご主人である森敬湖さんはトゥンク・アブドゥル・ラーマンと同級生でサッカー選手として有名だったという。1958年にはアジア連盟の会長になった。その前年、マラャ連邦独立を記念して光江さんは日本の大学に進学することを望んだ。忍さんは反対はしなかったけれど、寂しそうな表情をした。父の川内先生はよろこんで「行け」と言った。「一度日本を見て来い」という父の思いが伝わってきたという。川内先生は日本が大好きだった。
サッカー選手だった森先生とサッカーファンだった川内先生。
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