その二十八
もう一人の日本人

日馬プレス 渡邉明彦
 

 クアラルンプールに日本人会が設立された1964年は昭和39年、東京オリンピックが催された年だ。日本人会の理事の選出規則の中に永住者から一名選ぶことという項目があり、設立に尽力した永住組の川内先生と義兄の森敬湖さん、天藤さんの中から、まず、現地社会での知名度が高く、人望もあつかった森さんが理事に選ばれた。森さんは長崎県出身でしたが、どちらかというと長崎弁よりも英語のほうを日常的につかっていました。日本語だけで行われる日本人会の理事会には自分は不向きだと考えられ、義弟の川内先生を理事にアポイントしました。日本からの駐在員組はほとんどの人が3年前後、長くても5年程度だったので、「永住組から理事を一人」という規則が亡くなった1982年ごろまで、18年間継続して理事をやってくれた川内先生の存在は大きかった。
 川内先生は「会費を少しずつ積み立てて、クラブハウス用の土地を購入しよう」と言いつづけていた。2、3年で交替する駐在員組の理事たちにとっては10年後、20年後のことを考える必要も余裕もなかったのだろう。タマン・セプテにあった日本人学校がスバンに移転して世界でも最高級のクオリティーの日本人学校となったのを機に、旧日本人学校の跡地を取得し、旧校舎を改造して自前のクラブハウスにした。
 
 昭和35年ごろの資料を紐解いていたら、太平洋戦争敗北後、現地人としてクアラルンプールに留まった旧日本兵の記録を見つけた。
 大正5年、静岡県に生まれた佐々木賢一さんは日本大学を卒業して三井物産に入社した。昭和15年、豊橋の18連隊に応召された。翌年、中国広東に派遣され暗号手となった。その後、サイゴンに転属した。昭和16年、佐々木さんは海南島から山下泰文中将率いる第25軍の一員として12月8日のシンゴラ上陸に加わった。シンガポールを陥落させたあと、佐々木さんは召集解除となり、三井物産に復帰し、シンガポール支店、クアラルンプール支所に勤務した。そして、二度目の応召。そのままクアラルンプールで終戦を迎えた。そして、捕虜となった。
 日本への送還を待つ間に、マラヤ共産党からマレーシア独立運動への参加の呼びかけがあった。「どうせ日本に帰っても、戦争に敗れた日本は米英の植民地になり、日本人は奴隷になる」と考え、27歳の青年らしく「それならばこのまましばらくマラヤに留まっていよう」と独立運動に血をたぎらせた。タイ国境近くの山中に籠もって終戦後戻ってきた英軍と戦った。当時、マラヤ共産軍に参加した旧日本兵は多いときには約300人いたという。英軍とのゲリラ戦で多くの日本兵が命を失った。1948年、全マラヤに反共事態宣言が出された。51年には共産ゲリラによるテロが激化し、ガーニー英提督夫妻が暗殺された。マラヤ政府と共産党の会議が決裂し、共産党幹部はゲリラとともにジャングルに拠点を移した。
 1957年、マラヤ連邦は独立した。マラヤの独立を為し遂げようというのは、大東亜共栄圏を構築しようと考えた、というよりも欧米の植民地となっているアジア諸国を自国の影響下に起きたい、植民地にしたいという日本軍の野望を正当化するための理論であった「大東亜共栄圏」構想を金科玉条とする一部の若手将校の思い込みだった。マヤラ半島とインドネシア(スマトラ島パレンバン)の侵略に関しては、陸軍の本音は地下資源やエネルギー資源の収奪が目的であって、アジア民族の独立などというのは見せかけにすぎなかった。
 それでも若い日本兵の多くは終戦後も、マラヤ半島やインドネシアに残り、独立戦争に加わった。佐々木さんもそうした夢の実現に向けて走っていたのだ。しかし、自分たちの属する独立運動組織ではない、マレー人たちの独立運動が武力ではない、宗主国との話し合いでかなえられたことは衝撃的だったに違いない。
 マラヤ共産党の活動は宗主国の英国にとっても、独立後のマラヤ連邦にとっても断固排除すべき反政府主義者のゲリラにすぎなかった。自由主義の欧米諸国にとって、スターリンのロシア(ソ連)や毛沢東の中国の台頭は脅威だった。
 佐々木さんたちは目的を失った。マラヤ共産党は独立という目的を失い、革命やゲリラ戦による共産主義国家の樹立が目的となった。マラヤ政府とは完全な敵対関係になった。
 マラヤの独立という目的を見失った佐々木さんに日本への望郷の念がつよくなった。しかし、共産軍の残党の旧日本兵に安住の地はなかった。佐々木さんは華僑の女性と結婚し、名前を林慶端と変えて中国人として生活をはじめた。それからも逃げ回る生活がつづいた。商社時代の伝手を頼り、クアラルンプールにもいった。たえず、密告におびえていた。あるときはソンコをかぶり、サロンを巻いて、マレー人になりすました。林慶端という名で運転免許をとって、タクシーやトラックの運転手をした。日本人だということがばれそうになると職業を替え、住居も替えた。
 昭和35年(1960年)、日本人が次第に目に付くようになってきた。佐々木さんは日本大使館(領事館)に行き、「わたしは日本人の佐々木賢一だ」と名乗り出た。15年間の苦しかった逃亡生活は終わった。
 佐々木さんは三菱商事に勤務した5年後、独立してシンガポールで旅行会社をはじめた。

 
     
 
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