その二十九
子供たち一人ひとりに声をかけ

日馬プレス 渡邉明彦
 

 クアラルンプール日本人会が設立される以前の1962年から26年間、鋼管鉱業株式会社(2004年に川鉄鉱業と合併してJFEミネラル(鰍ノ)マレーシア駐在員として長期にわたって滞在した石橋聰吉郎さんは川内先生とともにクアラルンプール日本人会や日本人学校などで協力し合ってきた仲間と言うより肝胆相照らす友人となった。
 川内先生はクアラルンプール日本人会の永住者選出理事として義兄の森敬湖先生の後を任せられた。故郷長崎弁の日本語よりも英語のほうが堪能だった森先生は日本語で会議をする理事会は得意ではなかったようだ。引き継いだ川内先生は18年近く理事を務めた。
永住者選出理事の規定がなくなった1982年まで、石橋さんも幾度も理事になり川内先生と行動を共にした。石橋さんは1988年に帰国後も川内先生のもとをしばしば訪れている。1992年病床にあった川内先生と見舞い、先生が亡くなる前の約一ヶ月間は毎日、会いに来ていたという。
 日本人会ができたあと、1966年にジャラン・キア・ピンに日本人学校が創立された。小学生だけ10人程度しかいなかったクアラルンプール日本人学校から川内先生は歯科の校医に依頼された。無償のボランティアで川内先生はこころよく引き受けた。
 1974年にクアラルンプール日本人学校の幼稚園の教諭兼小学校の養護教諭(保健室の先生)として採用された西村広子さんは、当時の川内先生のことなどを懐かしそうに「あの頃の日本人学校は児童数はふえつつありましたが、100人にとどきませんでした。看護婦資格をもつわたしは先生の介助役として、子どもたちを並ばせたり、呼んだりしていました。当時五十代だったと思います。先生は黒縁のメガネをかけ、真っ白なワイシャツに真っ白な診療着すがたで、穏やかで、見るからに紳士という印象がありました。」、一年に一度、ほんとうの日本人にあったなという感じがしていたと西村さんはいう。「日本人学校の先生たちもみんな若かったので、お父さんみたいに感じている先生もいた。
 空いている教室に検診の準備をして、学年ごとに呼んでいきました。一学年に10人いるかいないかでしたが、先生は児童一人ひとりに、「きみはいい歯をしているね」、「毎朝、ちゃんと歯を磨いているかい」、「きみは○×さんの妹?」などと声をかけて、児童たちと接することがたのしいと感じていらっしゃるようでした。学年と学年の間の検診の切れ目には、わたしにも「どうですか?マレーシアは慣れましたか?」、「国籍は取りましたか?」と声をかけてくださいました。先生は「もし、戦争があったりすると、国籍が違うと夫婦が離れ離れになってしまうことがある。夫婦が一緒の国籍になるほうがいい」と話してくださいました。川内先生の家族が味わった苦しさを、自分の身近にいる若い人たちに味あわせたくないという思いがつよかったのだろう。
 西村さんと同時期に畑明子さんというい女性も日本人学校の家庭科の教諭兼幼稚園の教諭として採用された。西村さんと畑さんはふつうの日には午前中は幼稚園、午後は日本人学校と掛け持ちで働いていた。西村さんは、幼稚園の生みの親であり長い間理事をしていただ石橋聰吉郎さん、そして、川内先生、畑さんと西村さんの4人は年に一度くらいは一緒に食事をして昔を振り返っていたという。
 西村さんがクアラルンプールにきた1972年ごろ、街では日本人を見かけることはほとんどなかったという。買い物はKLの中心にあるウェルドか、アンパンのホクチュン、PJのジャヤ・スーパーくらいだった。それでもフェデラル・ホテルに行くと日本人の出張者などが宿泊していて、駐在員や大使館員などが目についた。「ここに来れば、日本人に会うことができる」と思ったそうだ。西村さんと同様にマレーシア人と結婚した人もいた。街で働いている人との交流はあったが、専業主婦となって自宅にこもりっきりだったり、カンポン暮らしの人との交流はほとんどなかった。旧知の国際結婚組の女性たちの多くは海外に出たり、亡くなったりしている。
 西村さんは2001年3月に27年3ヶ月勤めたKL日本人学校(幼稚園)を退職している。畑さんは西村さんの4年前の1997年3月に退職。語り次いでくれる人は少なくなっている。

 若い先生たちの頑張りで充実してきた日本人学校に、初めて年齢的にも風格もふさわしい四代目の校長に石川先生が就任した。石川先生たち、当時の日本人学校関係者は新校舎への移転の準備でたいへんな苦労をした。1976年9月、創立10周年の年の9月、日本人学校はタマン・セプテの現在のジャパン・クラブ会館に引っ越した。児童数は100人を超え、先生の数もふえた。
 1990年ごろ、70代後半にさしかかっていた川内先生は体調を悪くして横浜に住む長女の光江さんに介護されて療養していた。それでも、翌年5月の健康診断の日には日本人学校にやってきて、白衣姿で立ちっぱなしで児童生徒全員の歯の検診をしてくれた。日本人学校創立25周年の年のことだ。周囲の人にはとてもつらそうに見えたようだ。身体にはつらくても、心の中は25年前と一緒で、子供たちとのコミュニケーションがうれくてしかたがなかったのだろう。人には生命を削ってもいいと思える歓びがある。

 
     
 
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