前回にお話を聞いた西村広子さんのKL日本人学校幼稚部の同僚でKL日本人会の広報としても川内先生から直接お話を聞いてきた畑明子さんから、たまたまマレーシアを訪問中の4月17日、川内先生や川内先生の友人でも会った石橋總吉郎さんのことなどのお話を聞いた。
日本人学校の移転にあたって、川内先生たち理事会のメンバーはチェラスなどの候補地を見て歩いた。最終的にタマン・セプテに決まったとき、契約する際に保証人が必要になった。川内先生は何のためらいもなく保証人としてサインしたという。
昭和30(1955)年頃まで森敬湖さんが中心となり、生き残っておられた20〜30名の元「からゆきさん」たちの浄財や篤志によって維持されてきたKL日本人墓地の管理を、昭和40(1965)年、KL日本人会が引き継いだ。昭和34年ごろから日本政府による援助が出るようになった。
永住者代表理事が墓地担当理事となった。昭和50年代に入った頃から川内先生は日本人墓地の清掃をKL日本人学校に依頼した。しかし、断られつづけ、昭和55年になって初めて日本人学校の児童生徒による日本人墓地清掃が実現した。子どもたちが、自分たちが住んでいるマレーシアに何十年も前、へたをすれば百年以上も前から日本人が住んでいて、マレーシアの人々とともに生き、そして、亡くなってきたという事実を見つめ、思いを馳せることが生きた教育であると川内先生は思ったのだろう。
戦後まもなく、森敬湖さんは月を追い、年を追って、朽ち果てていく墓標を読み取り、埋葬者名簿の作成にかかった。1988年、KL日本人墓地改修工事にともない、森さんが作成した「日本人墓地埋葬者名簿」と「墓石配置図」を基本資料として新たな「日本人墓地埋葬者名簿」と「墓石配置図」が作られた。川内先生は墓碑銘のチェックにしばしば日本人墓地に出かけた。ほとんど読み取れない木製の墓碑に書かれた文字を、「太陽光の位置によっては読み取れるのでは?」と、時間を変えて何度も何度も出かけていったという。
義兄の森敬湖さんが亡くなったのは1986年11月25日だった。キリスト教の信者だった森さんのお墓はキリスト者らしく十字架の刻まれた墓碑だ。理由は定かではないが、おそらくことごとく仏教形式の日本人墓地にキリスト者の埋葬には違和感があったのだろう。日本大使館は森さんの埋葬を一旦は断ったらしい。義弟の川内先生が大使館におもむき、森さんがクアラルンプールの日本人社会に偉大な貢献を残した人物であることを説明し、お願いしたという。大使館から許可をもらったときには川内先生はたいへんによろこんでいたという。森敬湖さんのお墓はKL日本人墓地にある。
1988年7月に帰国するまで26年間、マレーシアに駐在した鋼管鉱業株式会社の石橋總吉郎さんは川内光治先生と長い期間、一緒にKL日本人会の理事をしていただけではない、すばらしい人間関係を構築していた。2、3年でメンバーが入れ替わる日本人会のこと日本人社会のこと、互いによき理解者であり、気心の知れた二人は力を合わせて二人三脚でやってきた。一人では何もできない、二人だからできたんだと思う」と畑さんは言う。
川内光治先生は昭和63(1988)年の春の叙勲で勲五等瑞宝章を受章した。5月11日は五月としてはちょっと肌寒い五月晴れだった。海外からの叙勲者は午前11時、外務省大臣室で行われた。勲五等瑞宝章の勲記と勲章の親授式が行われた。午後2時半、皇居に到着、「春秋の間」でお加減がすぐれぬ天皇陛下に代わり皇太子殿下(現在の平成天皇)ご夫妻に謁見した。皇太子殿下ご夫妻とは、美智子妃殿下とともに昭和45(1970)年にKL日本人学校にお立ちより下されたときに謁見の栄に浴して以来だった。
授章後、九州に住む弟を訪ねて福岡空港に着くと、叙勲の記事が載った新聞を読んで戦争中、マレー半島で拘束されインドに抑留されたときの仲間が集まってくれた。抑留時代にともに苦労をしてきた仲間たちとの40年ぶりの再会だった。
そのあと、クアラルンプールで川内先生、石橋さん、畑さん、西村さんなどがささやかなお祝いをしたときの川内先生の表情が「ほんとうにうれしそうで、いいお顔をしてらした」と畑さんは言う。
長い間、ご愛読いただきました『川内光治先生の記憶』でしたが、次号が最終回です。 |