4月16日号(344)の『川内光治先生に記録(その31)』で取材した西村広子さんからお電話がありました。「最後の一行、“人には生命を削ってもいいと思える歓びがある”がよかった」とお褒めの言葉をいただきました。KL日本人学校の歯科の校医として25年、歯科検診のために診療所を休んで、大勢の児童生徒の一人ひとりに声をかけながら、日本の(日本人とマレーシア人の間に生まれたおこっさんも含めて)子どもたちの歯をチェックするということが川内先生にとっては大きな歓びだったようです。そして、先生方の中に鹿児島出身の先生を見つけると、本当にたのしそうに話をしていたそうです。ひょっとしたら、川内先生にとっては年に一度、故郷・子どもたちからは日本、鹿児島出身の先生からは故郷鹿児島を感じることができる貴重な時間だったのかもしれません。もちろん、それよりも、川内先生が一生の仕事として選んだ歯科医という職業への誇り、使命感だったのでしょう。
KL日本人学校の歯科検診は長い間、純粋に無償の行為でした。金銭を目的とする意思はまったくないようでした。奥さんの忍さんは、そうした川内先生の一途さを「わたしのいうことなんかきかない人でしたから」と言って懐かしそうに笑っていました。児童生徒数がふえて、これで無償では申し訳ないと校長先生が判断して謝礼をお渡しするようになったそうです。ご自分の口からは報酬を請求するなんてことは、口が裂けても言えない人だったようです。川内先生のご家族も、先生を敬愛する皆さんも、異口同音に「それが、いかにも先生らしい」と評しています。
老境に入り70歳を超えても川内先生は日本人学校の歯科検診をつづけていました。これだけはどうしてもやりたいという強い思いがあったのでしょう。たとえ生命を削ることになったとしても、つらいけれども、それ以上の歓びがある。生きている限りは、足腰の立つ間は遣り通したいという熱い思いが伝わってきました。そのことを、“人には生命を削ってもいいと思える歓びがある”という一行に託しました。
川内先生ご一家はご自宅の近くに家作(貸家)をおもちでした。そこには代々、日本人学校の先生方がお住まいでした。奥さんの忍さんが時々、手作りの惣菜を届けてくれたそうです。「ほんとうにいい大家さんだった」そうです。
ダンディーだった川内先生は、高齢になってご飯をこぼしたりするような高齢者特有のゆるみを他人に見られたくないという思いがあったのでしょう。晩年は特別に親しい人以外とは外で食事をとることも減ってしまいました。「それも、川内先生らしいと思います」と畑さんは言っていました。
平成6(1994)年9月20日、川内光治先生は腎不全のために亡くなられました。80歳になる半月前のことでした。お通夜、葬儀が終わり、荼毘にふされました。遺骨は先生の生前からの意思で、家族一緒に戻ってきた思い出の港、ポートクランの沖合いに家族によって散骨されました。故郷の日本、懐かしい鹿児島へとつづく大海原に川内先生の魂は帰って行きました。
ですから、川内先生の墓石はマレーシアにはありません。
エピローグ
柔道の仲間であり同年齢の友人である御手洗さんに言われて『川内光治先生の記憶』を書き始めました。当初、10回から12回くらいで終わるかなと思っていました。
書きはじめてすぐに、義姉さんの娘さん(姪)のエンドンさん(アブドゥル・バダウィ首相夫人)が若くして身罷るという悲しい出来事がありました。川内先生はわたしたちと同じように、自分の意思でマレーシアにやってきて、自分の脚で歩いてきた大先輩です。太平洋戦争という不幸な時代を乗りこえ、マレーシアにいてなお日本を愛し、日本人の心を大切にする人だったと感じて、わたし自身の好奇心を大きく刺激してくれました。インド抑留時代のことは、まったく未知の世界で、調べれば調べるほど深い驚きと感動を覚えました。日本に帰還後の出来事も背景を調べていると、時間が経つのも忘れるほどでした。
33回もつづけてしまったのは、川内先生のキャラクターの特異さも原因の一つです。謹厳実直、誠実一路、まじめを絵に描いたような人柄なのに、インドの抑留時代、夜陰に乗じて、鉄条網をくぐって女性棟に忍び込み、奥さんとなった忍さんの心をとらえたという、なんとも大胆不敵な、若者らしい行動をしている。それが頭の隅っこに残っていて、本当はいたずら小僧みたいな面もあったんだろうなと親近感をもっていたからだと思います。
マレーシアという国に、日本の敗戦によってたった一粒の麦に過ぎなかった日本人社会が、川内先生、森敬湖さん、お二人と親しかった駐在員の石橋さんなどによって、現在のようなこの国になくてはならない存在となり、一緒に歩いていくパートナーとなることができました。去る4月21日に亡くなった鈴木一正さん(タン・スリ=マレーシア日本人商工会議所会頭を23年間勤めた)は「わたしたちはマレーシアという国の軒先を借りて仕事をさせてもらっている。そのことを感謝しなければいけない。忘れてはいけない」と言っていました。いいことばかりではないけれど、わたしたちが今こうしてこの国で生活していられるのは、マレーシアという国のお陰であり、川内先生、森さん、石橋さん、そして、鈴木さんたち先人のたゆまぬ努力のお陰だと思います。
「これで当分はノンフィクションはお休み」と考えて、「サテ、最後の一花を咲かせようかな」と思っていたのに、川内先生の義兄である、森敬湖さんのお孫さんから祖父のことも書いてほしいと頼まれてしまいました。義弟の一代記を書いて、義兄の一代記を書かないというのはフェアじゃない。好きな仕事ですから書こうと思っています。ただ、ほとんどに通った時代背景に生きた義理のご兄弟です。時代背景、時代考証は川内先生でやってしまったので、森先生のほうは写真を多くいれて、視覚からその時代が分るようにしたいと考えています。
もうしばらく、お付き合いください。 |