車いすバスケットボール
Wheelchair Basketball
日馬プレス 渡邉明彦
 

 ◆脊髄損傷患者のリハビリテーションからはじまった
 車いすバスケットボールが考案されたのは、1945年、イギリスのアイスベリーにある「ストーク・マンデビル病院国立精髄損傷センター」所長で神経科専門医のグッドマン博士が、脊髄損傷の患者のリハビリテーションの手段として、車いすに乗りながらでもできるスポーツとしてバスケットボールを思いついたからです。
 1949年にはバスケットボール発祥の地であるアメリカで全米車いすバスケットボール協会が設立され、競技として正式にスタートしました。
 現在、ヨーロッパを中心に世界77カ国・地域で行われています。残念ながら、アジアでの普及度は低く、日本、韓国、中国、香港などでプレーされています。
 日本では1960年、大分県の国立別府病院の仲村裕医師が車いすバスケットボールを紹介し、 1963年の全国障害者体育大会でデモンストレーションが行われて以来、普及がはじまりました。 1964年の第2回パラリンピック東京大会で一気に全国的に広まっていきました。日本のすべての都道府県にチームがあります。

  ◆車いすバスケットボールのルール
 車いすバスケットボールのルールは車いすでプレーするために改めた点のほかは、コートの大きさ、ゴールポストの高さ、ボールの大きさなど、一般のバスケットボールと同じです。
 競技時間:ゲームは1ピリオド10分で、4回行います。第1ピリオドと第2ピリオドの間と、第3ピリオドと第4ピリオドの間に,それぞれ2分のインターバルが入ります。第2ピリオドと第3ピリオドのインターバルは10分間のハーフタイムとなります。
 タップ・オフ 第1ピリオドの開始時のみ、センターサークルでタップ・オフをします。
第2,第3,第4と延長のときはセンター・ラインのアウトからのスローインで開始となります。     
 トラベリング プレーヤーがボールを保持しているときのプッシュ(車を回す)は連続して2回までです。3回以上のプッシュはトラベリングのバイオレーション(反則)で相手ボールのスローインになります。
  ゴールと得点 スリー・ポイント・ラインの内側からのシュートによるゴールは2点,スリー・ポイント・ラインの外側からのシュートによるゴールは3点、フリースローによるゴールは各1点になります。

反則
◇シュートの動作のときではない。
●プッシング 手や身体、あるいは車いすで相手選手や車いすを無理の押して動かすこと。
 イリーガル・ユース・オブ・ハンズ 手で相手選手を叩くこと
 ホールディング 手や腕で相手や車いすを押さえて行動の自由を妨げる

◇シュートの動作のとき
 シュートをしている相手の手を叩いたり,身体や車いすを押した場合
 シュートが成功した場合:フリースロー1本が相手チームに与えられる。
 シュートが失敗した場合:フリースロー2本か,3本が与えられる。
 車いすから転落(助けを必要とした場合)
 プレーヤーがボールをもったまま転落した場合
  ○バイオレーションで相手チーム側がもっとも近いアウト・オブ・バウンズからのスローイン
  ◇味方のプレーヤーがボールをもっているとき、どうチームの他のプレーヤーが転落した場合
  ○ボールを保持していたチームの側のもっとも近いアウト・オブ・バウンズからのスローイン
 相手チームのプレーヤーがボールをもっているとき、
  ○ボールを保持していたチームの側のもっとも近いアウト・オブ・バウンズからのスローイン

 相手側がシュートの動作中
  ○成功の場合 レフリータイムのあと、エンドラインから得点された側のスローインで再開。
  ○不成功の場合 ボールの保持が明確になった時点でタイムアウトののち,ボールを保持していたチームの選手により、その地点にもっとも近いアウトからのスローイン。

 ボールをバックコートにかえす
 フロントコートに運んだボールを,バックコートにいる味方のプレーヤーにパスしてはいけない。もっとも近いアウト・オブ・バウンズから相手チームのスローイン。

  オーバータイム
 5秒ルール
  ◇スローインのとき
  ◇フリースローのとき,審判からボールをわたされたあと、シュートするまでの時間
 守備側が近くにきて、ボールをパスしたりドリブルができなかったとき
  ◆ボールを保持したチームは8秒以内にバックコートからフロントコートに運ばなければならない。
  ◆フロントコートでボールを保持したチームは24秒以内にシュートし,合図がなる前にボールがリングに触れなくてはいけない。

◆クラス分け
 車いすバスケットボールの選手には、障害の程度によって、障害の重いものから順に1.0から4.5の持ち点が決められています。試合中にコートにいる5人の選手の持ち点の合計が14.0を超えてはいけません。
 クラス分けをするのは、このルールがなかったら、障害の軽い選手のみがコートにでてプレーすることになる可能性があります。そうしたことを避け、障害の重い選手も軽い選手も等しくコート場でプレーできるようにという目的で作られたルールです。
 クラス分けは車いす駆動、ドリブル、パス、ボール・コントロール、シュート、リバウンドといった動作はもちろんのこと、車いす座位における体幹のバランス能力とボール・コントロール範囲に応じて分類されています。
 腹筋、背筋の機能がなく、座位バランスがとれないため、背もたれから離れたプレー  はできない。体幹の保持やバランスを崩して元に戻すとき、上肢(手)をつかう。脊髄損傷では第7胸髄損傷以上の選手で、基本的に体幹を回旋することができない。
 腹筋、背筋の機能がある程度残存しているため、前傾姿勢をとることができる。体幹を回旋することができるため、ボールを受けたりパスする方向に体幹の上部を向けることができる。脊髄損傷では第10胸髄から第1腰髄損傷までの選手。残存能力には個人差がある。
 下肢(脚部)にわずかな筋肉の残存があり、足を閉じることができる。骨盤固定が可能になるので、深い前傾から手をつかわずにすばやく上体を起こすことができる。第2腰髄から第4腰髄損傷の選手、及び、両大腿切断者で断端長が二分の一以下の選手。
 股関節の外転をつかい、少なくとも片側への体幹の側屈運動ができる。第5腰髄異化の選手、及び、両大腿切断で断端長が三分の二以上の選手。または、片大腿切断で断端長が三分の二以下の選手。
 片大腿切断で断端長が三分の二以上の選手や,ごく軽度の下肢障害がある選手。どんな状況でも,両側への体幹の側屈運動が可能な選手。
 0.5ポイントはそれぞれのクラスで,上位の運動機能をもつ選手に加点されます。いずれのクラスも,残存能力には個人差があり、また,不全麻痺等の選手もいるので、一概に損傷部位によって持ち点を決めるのでなく、車いすバスケットボールの基本的動作,プレーの能力が持ち点の判定の主たるポイントになります。

◆車いすの規格
 フットレストの高さ11cm以下
 シートの高さ53cm以下 (サイド・シート・レールの上縁部の高さを計る。)
 大輪の大きさ69cm以下(空気を入れたタイヤの外側部の直径を計る。)

日本車椅子バスケットボール連盟の情報を参考にしました.

◆フェスピックに向けて
 マレーシア代表チームの指導に、元日本代表の神保さんが
 11月にクアラルンプールで開催されるフェスピック大会(極東・南太平洋障害者競技大会)に向けて、マレ−シアの車いすバスケットボール代表チームの指導のために、独立行政法人・国際協力機構(JICA)の海外青年協力隊の短期派遣で、元車いすバスケットボール日本代表の神保康広さんが1ヶ月間滞在します。
 神保さんは16歳のときに事故で車いす生活を余儀なくされ、18歳のときから車いすバスケットボールをはじめました。1992年のバルセロナ大会から2004年のアテネまで4大会連続でパラリンピックに日本代表として出場しています。
 4月10日からクアラルンプールで指導しています。

神保康広さん
 神保康広さんは1970年6月16日、東京で生まれた。育ったのは埼玉。16歳のときにバイクの自損事故で下半身付随になった。人生を失ったとの思いで絶望の日々を1年半送った。
 18歳のときに車いすバスケットボールと出会った。90年から車いすバスケットボールの「千葉ホークス」に入った。強豪で知られる「千葉ホークス」のメンバーのプレーは、車いすにベルトで足や上半身を固定し、車体ごと相手選手にぶつかっていく。倒れても平然と起きあがってプレーに戻る。激しい闘志をむき出しにしていた。
 「千葉ホークス」は、昭和44年に労働災害者の訓練施設(白子作業所)の「千葉作業所チーム」という名前で誕生した。昭和60(1985)年に拠点を千葉市内に移し「千葉ホークス」となった。ちームができて36年間に内閣総理大臣杯全国大会に11回優勝している。
 神保さんは92年のバルセロナ・パラリンピックに初めて日本代表として出場した。アトランタ、シドニーとパラリンピックに出場したが、一方で、障害者スポーツ全般のことを学びたいと思い、99年に勤務していた千葉市役所を辞め、奨学金を得てアメリカのアラバマ州レイクショア財団の研修生として1年間勉強しながら、同財団のサポートする車いすバスケ・チーム「ストーム」に所属し、2000から2001年、全米車いすバスケットボール協会(NWBA)のデビジョン2で活動し、チームは全米選手権で優勝した。2002年からはデビジョン1の「デンバー・ローリング・ナゲッツ」の参加した。この間をぬって、障害をもつ子供たちがスポーツに参加してもらうことを目的とした「バラエティ・クラブ・ジャパン」などにも参加している。
 2002年のオフに千葉市内に本社がある車いす製造・販売会社に入社し、仕事にバスケに活躍している。転勤で福岡に移住した03年9月からはチーム活動が困難になり、04年夏、筑豊から福岡にかけての選手を集めて「福岡Limitz」を立ち上げ、選手兼アシスタントコーチとして活動している。現在は福岡県飯塚市に在住。
 
 
 
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