フェスピックKLのマレーシア・チームの指導にきた
元アテネ・パラリンピック代表の
神保康広さんに聞く
日馬プレス 渡邉明彦
 

◆車いすバスケットをはじめたきっかけ 
 中学生時代の神保さんツッパリ少年で、あまり素行のいい生徒ではなかった。いやな先生に「(高校進学のときに書く)内申書には悪いことを書いてやるからな」とくり返し言われたので、「高校に進むつもりだったけどやめてしまったんです」。一年後、でも、やっぱり高校に行って勉強しようと思い、バイクに乗って中学に行き先生にお願いして、中学の門を出て高校に向かって走り出した直後、事故にあった。「更生して、再出発しようと歩き出したとたんだったんで、ものすごいショックだった」という。
 「俺の人生は終りだな」と思って、家に閉じこもってしまった。2年近く引きこもっていた。
18歳のときに運転免許をとろうと思ったのは、やっぱり外の世界に出たかったからだろう。埼玉県新座市に障害者専用の教習所があって、寮に入って訓練を受けた。そこで、多くの障害者と知り合い、結婚、仕事、スポーツ様々な情報交換をした。この中に車いすバスケットボールをしている仲間がいた。「半ば強制的に連れていかれたんですよ」と神保さんは苦笑した。そこでバスケットをしている人たちは元気だった。生き生きとして、すばやい動きでプレーしていた。「障害があっても、スポーツができる」ことを知った。思ってもみなかったことだった。
 車いすバスケの強豪チーム『千葉ホークス』に所属した。千葉県の障害者のための職業訓練校でOAの勉強をして、重機メーカーに勤めた。日本代表のメンバーになると、会社は「国内の大会に参加するくらいならいいけれど、国際大会は2、3週間、ときには1ヶ月も休みを足らなければならない。いくらなんでも…」と言われて、公務員試験を受けて千葉市役所に勤めるようになった。そのときの思い「生活するための仕事と、スポーツを両立させるのは難しい」を、今、マレーシアで痛感している。

◆援助が必要。マレーシアの車いすバスケットボール

 神保さんはKL郊外のバンギで、マレーシアチームの指導をしている。悩みの種は、まず選手たちの「仕事と車いすバスケの両立」だ。車いすバスケにのめりこんでしまうと、仕事に支障をきたす。大きな国際大会があれば仕事を休まなければならない。ときに休職したり、退職することにもなりかねない。辞めてしまったら、解雇されてしまったら、次の仕事はなかなか見つかりそうもない。とても、そんな勇気はない。
 そして、競技用の車いすが足らない。選手たちの中には10年も前の車いすをつかっているものもいる。競技用の車いすは、日本では30万円前後する。船賃が6、7万円、何だかんだで40万円近くかかる。あと10台あれば、いや5台でもいいというのが本音だ。
 障害者スポーツが注目され、健常者と障害者が一緒になって車いすバスケをやる機会がふえている。「健常者を、一番軽度の障害の4.5に見立てて5人で15点以内にすることが多いですね」。ボランティアで障害者の世話をしてくれていた人たちの一緒に車いすバスケをたのしむようになった。それはそれですばらしいことなんだけど、中古の車いすを健常者が買ってしまうので、中古の車いすが出回らなくなっているのだという。「手を尽くして探しているんですけど、中古の競技用車いすはなかなかみつからないんです」という。
 器具がない、遠征費用がない。いろいろな意味でのサポートが必要だという。もっと貧しい国ならば、先進諸国も大企業も援助しやすいんしょうが、マレーシアは発展途上にあっても豊かに見えるから、逆に援助が少なくて障害者スポーツが育たない。
 「マレーシアにある日本企業の中にも、日本では車いすバスケをいろいろサポートしてくれる企業があります。マレーシアの企業市民として、障害者がふつうの人と同じようにいたり、ふつうの人と一緒にスポーツをたのしめるような環境造りに協力してくれるとありがたいのですが」。

神保康広さん
 神保康広さんは1970年6月16日、東京で生まれた。育ったのは埼玉。16歳のときにバイクの自損事故で下半身付随になった。人生を失ったとの思いで絶望の日々を1年半送った。
 18歳のときに車いすバスケットボールと出会った。90年から車いすバスケットボールの「千葉ホークス」に入った。強豪で知られる「千葉ホークス」のメンバーのプレーは、車いすにベルトで足や上半身を固定し、車体ごと相手選手にぶつかっていく。倒れても平然と起きあがってプレーに戻る。激しい闘志をむき出しにしていた。
 「千葉ホークス」は、昭和44年に労働災害者の訓練施設(白子作業所)の「千葉作業所チーム」という名前で誕生した。昭和60(1985)年に拠点を千葉市内に移し「千葉ホークス」となった。ちームができて36年間に内閣総理大臣杯全国大会に11回優勝している。
 神保さんは92年のバルセロナ・パラリンピックに初めて日本代表として出場した。アトランタ、シドニーとパラリンピックに出場したが、一方で、障害者スポーツ全般のことを学びたいと思い、99年に勤務していた千葉市役所を辞め、奨学金を得てアメリカのアラバマ州レイクショア財団の研修生として1年間勉強しながら、同財団のサポートする車いすバスケ・チーム「ストーム」に所属し、2000から2001年、全米車いすバスケットボール協会(NWBA)のデビジョン2で活動し、チームは全米選手権で優勝した。2002年からはデビジョン1の「デンバー・ローリング・ナゲッツ」の参加した。この間をぬって、障害をもつ子供たちがスポーツに参加してもらうことを目的とした「バラエティ・クラブ・ジャパン」などにも参加している。
 2002年のオフに千葉市内に本社がある車いす製造・販売会社に入社し、仕事にバスケに活躍している。転勤で福岡に移住した03年9月からはチーム活動が困難になり、04年夏、筑豊から福岡にかけての選手を集めて「福岡Limitz」を立ち上げ、選手兼アシスタントコーチとして活動している。現在は福岡県飯塚市に在住。
 
 
 
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