障害者陸上コーチの荒井弘子さんに聞く
車いすなどの用具の修理技術が必要
日馬プレス 渡邉明彦
 

 荒井弘子さんは昨年4月から国際協力機構(JICA)のシニアボランティアとして、マレーシアの障害者陸上のコーチとして派遣されている。

 11月にクアラルンプールで催されるアジア太平洋地域の障害者スポーツの祭典「第9回フェスピック大会に向けて選手強化に励んでいる。マレーシアの障害者スポーツはある意味で日本のスポーツをする障害者たちよりもめぐまれている。日本の社会の方が経済活動にとって効率的ではない障害者福祉への対応は冷淡だと感じることがある。脚光を浴びていた昭和40年代、50年代のころ社会人野球もラグビーもサッカーもバレーボールもバスケットボールも華やかだった。この時代、日本で障害者スポーツに目を向けていたのはきわめて稀で、フェスピックの創始者である『太陽の家』(1965年創設)の中村裕博士と中村  博士の「保護より機会を」、「世に心身の障害者はあっても仕事に障害はありえない」という考えに共鳴したオムロン、ホンダ、ソニー、三菱商事、デンソーなどの大企業、また、各地で社会福祉活動をしていた人たち、養護学校関係の人たちくらいなものだった。もちろん、現実にはもっと多くの名もない人々や企業が応援していたはずだ。しかし、ほとんどのマスコミには注目されなかった。したがって、わたしたちには知る由もない別の世界のできごとでしかなかった。

 障害者も社会の一員として健常者と一緒に仕事をし、スポーツをするバリアのない世界は、まず欧米先進国が目指したものだった。『太陽の家』はそうした発想から生まれた。日本で障害者スポーツが注目されたのは1998年の長野パラリンピックでの日本選手の活躍する姿を、遅れ馳せながらテレビやマスコミが報道するようになったからだ。不況の真っ只中にあった日本の企業は社会人スポーツから次々と撤退していった時期だった。残念ながら、障害者スポーツに対するサポートも、障害者福祉に関心をもつ少数の企業に限られていた。

 荒井さんは大学を卒業後東京都の養護学校の体育教師となって、様々な障害のある児童生徒のスポーツに関わってきた。私生活ではジャズダンスからステージダンスの魅了されていたという。

 1997年から2000年まで荒井さんはケダ州の養護施設に海外青年協力隊員として赴任した。そこで障害者の生徒たちに陸上競技のたのしさを教えた。去年(2005年)、今度はシニア・ボランティアとしてマレーシア・パラリンピック評議会に陸上競技のコーチに赴任した。各州で開催されるサーキット・クバンサアンという競技会にかっての教え子たちが出場している。荒井さんの教えが生きている。それがとてもうれしいという。

 協力隊時代は障害者スポーツは福祉局の管轄だったのが、荒井さんの帰国後、青年スポーツ省に移管された。「引継ぎがうまくいってないのかなあ。福祉局は長いタームで障害者スポーツを考えてくれたのに、まだ障害者に不慣れなせいか青年スポーツ省はすぐに結果を要求してくる」という。でも、すぐに結果を出せというのは、JICAも一緒。協力隊にシロシニアボランティアにしろ、派遣期間の2年での成果をもとめてくる。「出来たら、5年、10年と腰を据えて教えていきたいし、持続してやっていけるきちんとしたシステムを構築したい」という。

 「でも、一番の問題は」と荒井さん。「車いすなどの障害者スポーツの用品や機器が壊れると修理ができずに、そのまま放置されて、競技そのものが終わってしまうことが多い」という。一般に発展途上国では用品や機器のメンテナンスは得意ではない。JACTIMやNPOなどが車いすなどを寄付してくれる。「簡単な修理ならともかく、本体そのものにかかる故障やスペアパーツが必要な修理に対応できない。維持、管理、修理などの技術を伝えてほしい」と障害者スポーツ用品や機器の修理技術の必要性をいう。ただ問題は、その修理技術で飯が食えるかということだ。飯が食えなければだれもやらない。

 2、3年で任期が終わるボランティアでは限界がある。「でも、何とかしたい」と言うのが荒井さんの本音だ。

 「それでも、マレーシアの障害者スポーツは日本の選手よりは恵まれているんですよ。合宿や試合などである期間拘束されると、政府から生活費などが出るんです。日本では会社が理解してくれないと駄目。試合のために仕事を止める選手も多いんです」という。日本の方が進んでいる部分もあれば、マレーシアの方が進んでいる部分もあるようだ。

 でも、何のかんの言っても日本では障害者スポーツへの関心が高い。選手たちもスポーツの大切さを理解し、社会に生きる一人の人間としての生活の一部としてたのしんでいる。そして、地方行政や一部でも企業からの様々なサポートがある。

 マレーシアでは、選手も家族も競技団体も経済的につらい。昭和30年代、40年代の日本も行政の障害者へのサービスは養護学校レベルまでだった。あの頃の日本と同じようにマレーシアの福祉行政は日進月歩している。それでも、「社会に出てふつうの人たちと一緒に生活したい」。「健常者とともに仕事をしたい、スポーツをしたい」と、障害者たちの声なき声が訴えている。ボランティアの支援、NPOの支援、そして、企業の支援が必要だ。

 
 
 
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