| ■天国と隣り合わせの地獄■ |
恵美ちゃんの移った日系会社の現地法人の社長の甲田さんは、名字の形通りの杓子定規な性格の会社人間でした。もっとも、杓子定規なのは仕事中での話で、太陽が沈む7時すぎには退廃的で刹那的な世界にのめり込んでいく、二重人格の持ち主でした。
新天地に移った恵美ちゃんは頑張りました。
同業種だったので、2年間の経験を積んだおかげで事務処理も早くなりましたし、企画会議でも積極的に発言できるようになっていました。まあ、ほとんどが前の会社の企画会議で聞いたのとそっくりのアイデアや嫌われもののSさんの受け売りだったりしたみたいだけれど、新しい会社だったので全員が経験不足だったせいもあって、通用したっていうのが現実なんですけどね。
甲田社長は彼女にお得意さん回りの営業的な仕事も与えて、彼女のかわいらしさをビジネスに使おうと考えたようです。
甲田社長の思惑通り、恵美ちゃんは水を得た魚のように、今度は給料に見合った仕事をしているなと自分で実感したと親しい人たちに言つていたくらい、充実した日々を送っていました。
社長は週に2、3度、食事に連れて行ってくれました。
最初のうちは
「甲田社長って、エリートなんですよ。趣味がとっても洗練されてるの」、
「社長と一緒だと美味しいものが食べられる」、
「昨日の××レストランの日本食は最高!」とか言ってはしゃいでいたんですが、2か月がすぎた頃にはすっかり齢(うつ)状態になっていました。
「アルコールを飲むと人格が変わるの。卑猥なことばかり言ってみたり、カラオケに行こうとか、一回ぐらい付き合えって言うの。やたらと触りたがったり。断ると、怒るのよ。あの変態親父」と怒り狂ってみたかと思うと、
「でもね。この会社は働きやすいし、皆いい人たちだから辞めたくないのよね」とうつむいてしまったり、かわいそうなくらい落ち込むようになりました。
そんな程度で落ちこんでいたんじゃ、勤まらないわよ。
わたしなんかカマちゃんの浮気だか本気だかわからない女癖やら、嫁を口説く義父にいつも接しているからたいしたことだとは思えないのよね。
『日馬プレス』だって、社長のWさんの目つきや態度を見てると、いかにも中年のすけべ親父って感じがするじやない。程度の差こそあれ、あるいは、本心を表にだすかださないかの違いはあっても、男なんてみんな同じ。 |
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| ■救いの神はナイスガイ■ |
「捨てる神あれば、拾う神あり」、
そう日本だけが神の国ではなかったのです。前の会社の瞭われものマネージャーのSさんが帰国という朗報が入ったのです。かってのマレーシア人の同僚が、「代わりに来た河谷さんはカッコいいのよ。日本の人気テレピ俳優にそっくり」って興奮して電話してきたくらい、河谷さんは評判のいい青年だったようです。
かっての同僚たちは恵美ちゃんに:河谷さんとの食事会をセットしてくれました。
前評判どおりに河谷さんは魅力的な男性でした。ソフトな語り口で、やさしさが伝わってくるようでした。
不肖の父親のことがあって、日本人男性には生理的な嫌悪感をもっていた恵美ちゃんも、さすがに胸がときめくのを感じたそうです。
河谷さんは彼女の耳元で、 「いろいろトラブルがあったようだけど、高梨支店長ももうじき日本に帰るし、どう、君さえよかったら、戻つてこないか」って、ささやいたんです。
「アシスタント・マネージャーに推薦するよ。給料は今いくらもらってるの。3000リンギ、それじゃあ3500リンギで車付きでどう」、
「君みたいなかわいい女性と一緒に働けたら、毎日会社に行くのが楽しいだろうな」なんて歯の浮くような台詞も添えて。
恵美ちやんは、普段から相談相手になってもらっていた華人系マレーシア人と結婚して20年余りの花村さんに相談したそうです。
「そんなうまい話は危ないわよ。何か落とし穴がありそうな気がするな。前にも、恵美ちゃんだけが特別に高級で優遇されているって、マレーシア人スタッフから白い目で見られたんでしょう。今度はもっと悲惨な結果になるわよ」、花村さんはもう一度考え直すように言ったそうです。
恵美ちゃん、わたしのところにもやってきて、「どうしようかな―」って言うんです。
「河谷さんって、信用できるの。それにそんな発言力あるのかしら」、河谷さんのカッコよさを得意になって話している 恵美ちゃんに危うさを感じたのはわたしだけではありませんでした。でも、周りの人が河谷さんの話をうさん臭いと言えば言うほど恵美
ちゃんの心は河谷さんのほうに傾いていきました。 |
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| ■最悪の裏切り■ |
甲田社長に辞表を提出したのは、3か月間の試採用期間の終わる直前でした。
そして、その翌日、河谷さんと一緒に昼食を食べながら、元の会社に戻ることに決めたことを報告しました。
河谷さんの表情の変化に、すっかり舞い上がっていた彼女は気がつかなかったようです。
「そう。高梨支店長に報告しておくよ。こちらから連絡するから待っててよね」、
さすがに河谷さんのリアクションの素っ気なさに恵美ちやんは、「あれっ」と思ったそうです。
「うれしい」とか、
「一緒に働けるんだね。たのしいだろうな」、
こんな答えが返ってくると思っていたのに‥‥。
3日後の朝、河谷さんから恵美ちゃんの自宅に電話がありました。
「ごめん。支店長の気が変わって、一度辞めた奴を二度と使えるかって怒りだしたんだ。どうやら、甲田社長に焼き餅を焼いているらしい。それに、口―カルスタッフの
間から、エミが戻ってくるなら、自分達と同じかそれ以下の待遇じゃなかったら自分達が辞めるって言い出したんだ。そんな訳で、この話はたぶん駄目になっ
ちゃうな」
と言うんです。
「そんな」、
頭の中が真っ白になって、言葉につまっていました。
「それじゃあ」、
「ちょっと待ってよ。わたし前の仕事を辞めちゃったんですよ。どうしたらいいんですか」、
怒りがこみあげてきました。
「わたしをだましたんですか。はじめからだますつもりだったんでしょう」、
「そんなこと言ったって、ぼくにはどうしようもない。君を傷付けたくないから黙っていようと思ったけど、ぼくは君のお父さんのことを知っているんだよ。日本のきちんとした会社が君みたいな人を雇うわけがないでしよう」、
「‥‥」
「ぼくのガ―ルフレンドになってくれるなら、小遣い程度ならあげられるけど。でも、遊びでだよ」ですって。 |
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| ■人間不信、自己嫌悪、そして失踪■ |
河谷(さんという敬称はこの時点で廃棄処分されてしまいました。)へのメラメラと燃えるような怒りと、周囲の忠告も聞かずに舞い上がったあげくに裏切られてどん底に落とされた自分の愚かさに、恵美
ちゃんは自分の世界に閉じこもってしまいました。
わたしたちが電話してもでない。
自宅に行っても、電気はついているのに出てこない。まるで自閉症の子供のように心を閉ざしてしまったのです。
わたしたちの間では、恵美ちゃんは、ライバル社への対抗意識と嫉妬から張り巡らされた蜘蛛の巣のような高梨支店長の陰謀に見事にひっかかったと推理されていました。
河谷という社員は、女をだます役目の美男俳優だったということなのでしよう。
「無責任」とか「恥知らず」とかいう言葉を、河谷のような男に浴びせてみても、蛙の顔にしょんべん程度にしか感じないと思うのです。
人間不信と自己嫌悪、恵美ちゃんにはきつ過ぎる試練だったのかもしれません。おそらく、涙も出なかったでしょう。父親のように他人から後ろ指を指されるような人生だけは送りたくないというのが、恵美
ちゃんの信条だったんだと思うんです。
「ひとに信じられたい」、
「ひとを信じたい」
と彼女はいつも願っていたんだと思うんです。
そして、淡い恋心もあって‥‥。
1か月も経たないうちに、恵美ちゃんの電話が通じなくなりました。
そして、誰にも、何にも言わないで恵美ちゃんの姿はクアラルンプールから消えてしまいました。
高梨支店長も河谷も、そして甲田社長も、3人ともつつがなく任期を終えて日本に帰りました。 |