#25
勉強がきらいな
日本語学校の先生のお話
小田島小百合
 
 日本語学校の生徒から「日本に留学していた友達が帰ってきたの。今度一緒に食事をしましょうって誘われているんだけど、一緒にきませんか」って誘われたんです。もちろん、この会話は英語でしたけど。中国系の生徒の学習意欲はすごく高いのに感心しています。うちのカマちゃんもね。大学を卒業したあと、机に向かって本を読んでいるのを見たことがないもん。わたしのパソコンを勝手に使ってメールのやりとりをしているけど、何を書いているのやら。携帯電話でいやらしい笑い方をするのはしょっちゅうだし、よくわかんない。

 わたしも日本の友達や両親とはメールでやりとりしているの。この間、お母さんに日本語学校で日本語を教えているってしらせたら、おかあさんたら「あんたねえ。メールの文章だって間違いだらけ、文法はめちゃくちゃだし、漢字も間違いだらけ。そんなんで日本語の先生だなんてできるの?」って書いてきたの。その直後におとうさんから電話がかかってきて、「おまえが日本語の先生をやるなんてとんでもない。日本人なら日本語の会話くらい誰でもできるっていっても、お前ら仲間同士の会話なんておとうさんにも理解不能なんだからな。恥ずかしいと思わんのか? すぐにやめなさい。お前見たいのを詐欺師というんだ」ってすごい剣幕。そんなにむきになることないじゃない。学校の経営者が「いい」って言ってるんだから。でも、親孝行のわたしは「わかりました。すぐにやめます」って答えたの。ヘッヘッへ、口先だけよ。どうせ見えっこないんだから」。

 日本の大学院を出たというオンさんは日本語べらべら。東京の国立大学の大学院を卒業したんですって。わたしみたいな田舎の三流、いや五流かな? 私立大学をかすかすで卒業したのとは大違い。カマちゃんたちみたいなお坊ちゃん育ちの国費留学生と違って、中国系の留学生は勉強も必死、学費稼ぎも必死でほんとうによく勉強しているのね。えらい!

 でも、オンさんたら、わたしが知らない日本語をつかうの。というか、日本のことをよく知っているの。「国際協力機構の緒形さんって、すごいですね。難民やら避難民やらのために寸暇を惜しんで働いているんです」だとか、「小泉首相って、日本国民を愚弄してますよね」とか、会話の所々に意味不明の単語が混じっているの。きょとんってしていたら、「ごめんなさい。硬い話ばかりで。わたし日本の芸能ニュースはだめなんです」ですって。どうせ、わたしは芸能ニュースレベルですよ。イーっだ」とお腹の中でベロをだしたの。

 オンさん、大学では政治経済学部を、大学院経済学を専攻していたんですって。レベルが違うわ。たぶん、日本語力だってオンさんのほうがずっとうえだと思うわ。恥ずかしい。でもね。日本語の先生をやめるわけにはいかないの。カマちゃんがね。給料をほとんど入れてくれないの。自分では「僕のサラリーは4千リンギ」って言ってるのにわたしにくれるのは半分以下。家賃を払い、車のローンを払い、残りで食費と被服費もだなんてできっこない。「恥ずかしいとか」言っている余裕はないの。背に腹は代えられないの。

 オンさん経由でわたしの日本語力の低さが生徒たちに伝わってはたいへん。生活を守るために、分からない単語やむずかしい表現、聞いたことのない名前でも知っている、よく分かっているってふうに「そうねえ。そうねえ」って聞いていたの。疲れたわ。

 でもねえ。わたしよりあとから、日本人女性が入ってきたの。長洲藍さんって三十代中頃かなあ。わたしよりずいぶん年上なんだけど、美人で、背が高くて、スリムで、おまけにおっとりとしたお嬢さんっぽい話し方をするもんだから、日本語学校の華人で独身の先生たちはもちろん、男子生徒たちも目の色が変わって大変な騒ぎだったわ。たいがいなことにめげないわたいも、さすがに「負けた」と意気消沈してしまったわ。おなじ女性として生まれながら、天はこの人には二物も三物も与えたのね。「親を恨むしかないか」と半身ファンだった父と、オリックスのイチローふぁんだった母の顔を思い浮かべたわ。悔しい!

 そんなわたしの気持ちが通じたのか、この長洲藍先生の評判があまりよくないの。男の先生たちが食事に誘ったり、デートに誘っても、そっけないの。「ごめん。今日は帰らなくちゃ」ばっかり。一人暮らしのはずだし、とくに趣味があるとは思えないから、「きっと、ボーイフレンドがいるんだ」ということになってしまったの。噂では、「ボーイフレンドはマレー人だ」とか、「いや、僕が目撃したのは日本人に見えたけど、どうも日本人じゃないらしい。訳のわからない言葉で話してた」とかあったけど、とにかく日本人男性とは付き合いはないらしいの。というわけで、「藍さんは背も高いけど、気位もお高い」ということになってしまったの。

 藍さんも日本語を教えるのは初体験。もちろん資格もない。彼女はこれからの人生のことを考えて日本語教師になりたいと思ったというのが、学校長の説明だったの。わたしのように、「わたしは日本人だから、日本語を教えても大丈夫。それで給料がもらえれば御の字だわ」という卑しい動機で入ってきたのではないらしいの。でもね、動機は卑しくても、他人に物事を教えるってけっこう大変なことなのよ。きちんと予習して、何をどう教えるかを考えてからやらないと授業にならないの。ときどき冗談や、日本の話を入れながら、生徒たちが日本語だけじゃなく、日本という国、日本人の生活や考え方を知ってもらって、少しでも日本にいい印象をもってもらうために、いつも考えているの。それに、わたしは中学時代も高校時代も国語の成績はあまりいいほうじゃなかったから、悪いほうでもないとは思えけど、そう、いつも70点台だったから、もっと勉強しなきゃ生徒に笑われるって感じていたわ。日本のお母さんに頼んで、日本語の指導法の本なんかを送ってもらって夜一人で勉強していたの。そうしたら、わが愛しのカマルディン君ことカマちゃんは、そっと紅茶をいれてお菓子をそえてもってきてくれるの。仕事はろくにしないし、本を読んでいるのを一度も見たことがないけど、こうしてやさしくされると許しちゃうのよね。だめねえ、日本の女って。

 おかしなことに、二、三ヶ月たったら、藍さんの教えるクラスの生徒が、一人、また一人ってやめていくの。学校長は最初の頃みたいににこやかな笑顔を見せなくなって、苦虫を噛み潰したような顔をしているの。藍さんは勤務の初日からずーっと同じように「わたしは学校長の友達よ」って顔で、親しげに話し掛けてるの。「ねえ。この漢字、なんて読むの?」だとか、「生徒に、藍先生の日本語よく分からないって言われたの。日本人のわたしがしゃべっているのに、あの子達分からないの」などと言っているのを先生たちが聞いて、わたしに「藍先生はほんとうに日本人なの?」っていうの。こまっちゃうわ。

 どうやら藍先生は授業の前に予習をしていないらしいの。ぶっつけ本番でやるもんだから、自分の知らないことが出てくると立ち往生してしまうらしいの。学校長が「きちんと予習をして、指導法の研究もきちんとしてきてください」って何度か注意したらしいけど、ぜんぜん進歩がないらしいの。学校長に「こういう本を貸してください。なかったら、買ってください」って言ってきたときに、学校長は、「ここの先生たちは全員、ここにくる前にそういう本を読んで、きちんと勉強してからきているんです。日本語教育の基礎の本など備品として必要な本ではありません。紀伊国屋に行けば売っていますから自分で買って読んでください」って言ったらしいの。そのとき藍先生ったらなんて答えたと思う。「紀伊国屋の本は高いから、わたしには買うことはできません」ですって。藍先生、学校長の友人だからって、わたしやローカルスタッフよりいい給料をもらっているのよ。それにアルバイトで何千リンギの別収入もあるっていうし。金の亡者なのかもね。

 今年に入って、さすがに学校長も呆れ果てたというのを通りすぎて、困り果てたらしくて、「もっと勉強したほうがいい」、「努力してよ」とも言わなくなって、藍先生の後姿に「辞めてくれないかな」という視線でいるの。どうやら、藍先生のアルバイト先にも電話して勤務態度なんかを聞いていたらしいわ。「わがままで、自分の都合のいいことだけを強引に主張している。近いうちに、辞めてもらう」と言われたらしいわ。

 それでも、学校長はなんとかしようと思っていたらしく、「もう一ランク上のクラスももって」と向上心とか学習意欲を誘ったらしいの。でもだめ。「わたしにはできないわ」でチョン。「ウーン。日本語教師になるために勉強したいっていうから、だいじにしてやってきたのに」とマジギレ寸前。怖かったわ。もっと怖いと思ったのは藍先生のほう。我関せずで、いつもさわやかな笑顔でやってきて、たのしそうにやっているの。生徒がやめても、「あの子はだめねえ。もうちょっと頑張ればいいのに。勉強がきらいなのかしら」でケロッ。学校長が「オメーダロ。勉強がきらいなには」って今にも殴りかからんばかり。

 学校のスタッフ全員が藍先生にあきれたのは、学校長が彼女の得意だというコンピューター技術を活かして、生徒の原簿作りを命じたときのこと。学校長は払っている給料の半分ぐらいは働いてもらおうというねらいがあったんだけど、無頓着な藍先生は颯爽とコンピューターの前に坐り、「あなた方にできる?」って表情で作業をはじめたの。しばらくして、藍先生があまり静かなのでそっと後ろから近づいた同僚の女性教師が「アラッ、メールを打ってたの?」って大声で。学校長が見たときには、インターネットで何事かを検索中。学校長の落胆する様子は見るに耐えないものが。

 それから二ヶ月。藍先生はアルバイト先を解雇されたみたい。いくら優遇されているといっても、所詮は日本語教師もパートタイマーだから、一転して生活苦に襲われたらしいの。学校長が出張で日本に帰るその日、「給料を上げてほしい。常勤になってワークパーミットもとって。さもなければ、わたしこの学校を辞めなければならないわ」って言いに行ったらしいの。そのとき学校長、やっと踏ん切りがついたらしく、「給料は上げません。ワークパーミットもとりません。辞めていただいてけっこうです」って答えたんですって。藍先生ったら、その日一日ボーっとして何を話しかけても反応はなし。一方の学校長は胸を張って、「わたしが出張する当日に給料を上げてとか、条件をよくしてって言ってくるというのはアルバイト先の社長から聞いていたから、そのときがチャンスだと思って待ち構えていたんだ。いつまでも、好き勝手にさせていくもんですか」としてやったり。

 その後の藍先生。わたしたち同僚を二、三人巻き込んで学校側と対決しようと考えたのか、「学校長ってひどいの。グチュグチュ」ってかたっぱしから話しかけてきたわ。でも、だれからも相手にされなかった。彼女が辞めるにあたって、送別会はなし。聞くところでは、アルバイト先、といってもワークパーミットをとった正社員だった時期も含めて4年近く勤めた会社でも送別会はなかったみたい。嫌われ者が去って、気分さっぱりだったんでしょうね。

 三十代半ばをすぎても傲慢でいて怯懦(きょうだ)、我儘で怠惰、研鑚努力して自分を高めようという意識もない。自分がある方向に歩きはじめたら、だれかが助けてくれると思っている。日本人にもこんな人がいて、こんな人がマレーシアにやってきて生きている。なんかイヤーな感じがするわ。相変わらず、パンチラで売り出している日本人女性がいるし、レベル低―い。
 
  ここに掲載の記事・写真・図表などの無断転載を禁止します。
著作権はA. P. PRESS (M) SDN. BHD.またはその情報提供者に帰属します。
POWERED by Minamikaze Digital Animation Studio Enterprise