もう5、6年になるかしら、トレンガヌで大岩さんという七十前後の日本人のおじいさんに逢いました。20年くらい前からトレンガヌに住みついているって聞いて、「へー。こんな田舎に。変わってる」って感じたのを憶えているわ。「マレー人と結婚したのか。変わってるね」って言われたの。自分だって、マレー人の女性と、しかも三十幾つも若くてきれいな女性と結婚しているくせに。
「トレンガヌのレダン島に行くの」って言ったら、『日馬プレス』のボスの渡邉社長が「クアラトレンガヌに行って、大岩さんに会って、マレーのハリマオの話を聞いて、日本人墓地を見てくるといい」って言われたんです。
渡邉社長は大岩さんに初めて会って驚いたそうです。大岩という苗字が故郷の千葉市に多いので「ひょっとしたら、千葉出身ですか?」って聞いたら、「そうだ」ってことから話が弾んで、渡邉社長の高校の柔道部の先輩の親戚だということがわかって。しかも、大岩さんも社長のお祖父さんの兄弟を知っていて、「ありゃりゃ!」ってことになったそうです。何でも、渡邉社長のお祖父さん兄弟というのはその昔、千葉市で有名な土建屋兼やくざ屋さんだったんですって。高校時代に警察の道場で柔道の稽古をしていると年配の警官に「お前はババトクの孫か?」と言われて、「お前のじいちゃんの家の二階には機関銃が据えつけてあってな」なんて言われて困ったって言ってました。大岩家というのは千葉市では豆腐屋さんで有名だったそうです。「でもね。今は、大岩さんはトレンガヌに永住する元日本人のマレーシア人のおじいさんだからね。そのつもりでね」と言われました。 |
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| 大岩さんと、マレーの虎「ハリマオ」の弟さんとの出会い |
マレーの虎「ハリマオ」は何年か前に和田勉が監督、陣内孝則が主演の映画を観た記憶があるけど、お父さんやお母さんに観たって言ったら、「三橋美智也が“真っ赤な太陽、燃えている”って歌ってたよな」、「後ろ足で立っている馬に乗って拳銃を撃っているのよね。何か、西部劇みたいだったわ」ってわけのわからない会話がはじまって。渡邉社長が言うには「あれはね。太平洋戦争開始直後に、日本軍が大新聞と結託して、マレー半島快進撃、シンガポール攻略を陰で支えた日本人スパイ。中国人青年に妹の静子を惨殺された谷豊青年が、マレー人の子分三千人を従えて妹の復讐と祖国日本の勝利のために戦い、そして非業の死を遂げた“救国の英雄”と祭り上げた話だよ」って言っていたの。
大岩さんも「弟の繁樹さんは、兄貴はそんなにかっこよくなかったですよ。マレイが好きでマレー人が好きなふつうの人なんですよって言ってた」と言ってます。渡邉社長は「だいたいな、マレー人のひとつのカンポン(部落)に何人すんでいるよ。子分が三千人? 日本軍が中国の重慶で30万人も虐殺したって話といい勝負だね。どこにそんな人数がいるんだ」って話がとんでもないほうに行っちゃう。とにかく、小柄で気が強い日本の青年で、マレー人の悪がきどもの兄貴分だったみたい。
大岩さんは「谷繁樹さんと会うまでは、戦争前にトレンガヌに日本人が住んでいたなんて気にもしていなかったんだ。マレーのハリマオなんて思い出すこともなかった。本当にいたのかもわからなかったしね。でも同年輩の、クアラ・トレンガヌで生まれた谷さんと会って、トレンガヌにもいろいろな日本人が住んでいて、いろいろな人生を歩いていたということを知って、その人たちの足跡を捜し求めていきたいと思うようになった。それを、自分の生きてきた証にしようと思った」と言うんです。「偶然、谷繁樹さんと知り合って、日本人墓地を再発見して、その日本人墓地のあちこちにトレンガヌ海岸までたどり着いたのに上陸できずに死んでいった何十ものベトナム難民の墓があって、それから、勝手に日本人墓地の敷地内に墓を造ってしまった中国人たちがいて、それが自分たちの知り合いの家族だったりして・・・。墓参にきていただいた野村一成大使(当時)に感謝の言葉をいただいて、うれしかった。おれみたいな外れ者が日本の代表となっている人に声をかけてもらえて、夢みたいだった。谷さんがきっかけでいろいろなことを知り、いろいろな人と知り合うことができた。それがうれしい」と言って声をつまらせるんです。
大岩さんは日本鉱業という会社の鉄鉱石積出港があったドゥング−ンでも、家の縁側を支えている石や踏み石をひっくり返して日本人の墓碑を探し出したり、戦争前に日本人と親しくしていた華僑の老人の話を聞きあつめたりしていたらしいわ。日本人会会長の竹中さんたちとともにトレンガヌ日本人墓地を整備し、念願の『谷豊の碑』も建立したんですって。
大岩さんに連れられてトレンガヌ日本人墓地に行きました。こじんまりした公園のようでした。でも、そこにはいろいろな、というより、複雑な思いがありました。華僑の皆さんのお墓はコンクリート造りの馬蹄系をした堂々たるものでした。それに引き換え、ベトナム難民たちのお墓は数個のレンガをコンクリートで固めただけの貧弱なものでした。難民たちの多くは南ベトナムが健在であれば、そこそこの資産をもつ人々だったそうです。
主役の日本人のお墓は、復元されていました。ハリマオのお父さんの浦吉さんと妹の静子さんのお墓が並んでいました。幼くして非業の死を遂げた妹への思いは、繁樹さんはもちろん、この地に戻ってきたハリマオ、豊さんにとってもつらく悲しいものだったのでしょう。福岡に帰っていて妹を華僑の青年の狂気からすくえなかった豊さんの悔しさを思うと、このお墓の前でひざまづいて涙を流している豊さんの姿が目に見えるよう。そして、大岩さんは、繁樹さんが61年ぶりに抱いた妹の遺骨を見つめて目を赤くにじませていたといっていました。
谷繁樹さんが「日本軍と日本軍の手先となっていた大新聞が、ただ、マレーの人々が好きで、この土地がだいすきなふつうの男を、妹の恨みを晴らそうと中国人とイギリス人を相手に立ちあがった子分が三千人もいる大盗賊団の首領に仕立て上げて、得体の知れないスパイにして日本軍に巻き込んで、戦意高揚のための英雄伝説をつくってしまったんだ、と悔しがっていたんだ」、「兄貴はそんなかっこいい人間じゃない。ふつうの男だった」って何度も言っていたらしいわ。
渡邉社長は「大岩さんは、あの時代のことを一生懸命調べてくれてね。華僑の長老やマレー人のお年寄りたちの話しを丹念にあつめて教えてくれたんだ。マレー人と仲がよかったのは谷豊だけじゃないんだ。日本軍が中国大陸に侵略しはじめたあとも、トレンガヌの町では日本人も華僑の商人たちもマレー人も、みんな親しく、一緒に生活していたんだ。だから、あの『谷豊の碑』の文にもそう書いたんだ」と言ってたわ。ウソかほんとうか知らないけれど、自分が碑文を書いたって言っているの。ほんとかしら? |
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| 『谷豊の碑』 |
およそ百年前から、ここトレンガヌには数十人の日本人が住んでいた。あるものは商人として、あるものは技術者として、この街の人々とともに暮らし。助け合っていた。
一人の青年がいた。名前は谷豊、明治四十四年十一月十五日福岡縣筑紫郡に生まれた。大正二年、豊は家族とともにトレンガヌの土を踏んだ。家族は理髪業を営み、誰からも分けへだてなく親しまれたという。
太平洋に暗雲が立ちこめ、豊の家族も時代に翻弄された。そうした中、豊はイスラムに帰依し、マレー人として生きる道を選んだ。戦争という漆黒の闇がマレー半島を覆う頃から、豊は『マレーのハリマオ』として伝説の人になった。昭和十七年三月十七日、三十一歳の『マレーのハリマオ』はシンガポールで死んだとされている。豊もまた戦争の犠牲者だった。
豊はマレー半島を愛し、ここに住む貧しい人たちを愛した。改装なったトレンガヌ日本人墓地の開所にあたり、日本人とこの地に住むすべての人々との永遠の友情の証として、ここに記録する。
一九九五年六月吉日
「この碑文はね、谷繁樹さんから聞いた豊の話と、大岩さんが調べたことをもとに書いたんだ。二人の話を聞いていると、太平洋戦争初期に日本軍が国民の意識を鼓舞しようとして作り上げられた英雄だとしか考えられないんだ。マスコミを利用したプロパガンダって言うのかな。今、平和だ、人権だ、って偉そうなことを言っている大新聞も、あの時代には軍国主義のお先棒をかついでいたんだ。だから、ハリマオがマラリアでシンガポールの病院で死んだという話だって鵜呑みにはできないんだ。いつまでも生きていられたら困ると判断した参謀がいてもふしぎはないからね」。ふむふむ、まさに陰謀渦巻く世界だわね。
大岩さんも、谷繁樹さんもこの二、三年の間になくなってしまったそうなの。「ふたりとも、立派なひとたちだったな。谷繁樹さんはプロ野球の元巨人軍の監督の川上哲治さんに顔も雰囲気もよく似ていてね。トレンガヌも小学校と福岡の小学校との交流をすすめていてね、博多弁でとつとつとしゃべるのが誠実な人柄とマッチしてたな。大岩さんは同郷の先輩で、谷豊の足跡や戦前の日本人の生活を探して、一緒にあちこち歩いたからな。人生を悟りきったというか、煩悩がなくなった枯淡の境地というか、そんな感じだった」というのが渡邉社長の記憶にある二人のイメージ。そんなにすばらしい人たちと知り合ったのなら、少しはまねをして煩悩を減らせばいいのに。なんか、煩悩が洋服着て歩いているみたい。そんなんじゃ、極楽往生できないぞ。
わたしも、大岩さんと会って、マレーシアの田舎に住んで、若い頃とはまったく違う生活をして、「俺はトレンガヌに骨を埋めるんだ」ときめて、病気になっても「俺はここから出て行かない」という頑固な生き方をしながら、それでも「トレンガヌに残された日本人の足跡を記録していくのが、俺の最後の仕事だ」っていうのが、なんとなく、日本人のアイデンティティーを捨てきれなかった『マレーのハリマオ』に似ているような感じがしたの。大岩さんの若い頃のことは、ほとんど誰も知らないみたい。「大岩さんの人生最後の数年間のごく一部を見ただけだけど、すばらしい人だったなあと思うよ。ああいう晩年を送りたいな。俺の理想は“老人と海”で、晴耕雨読の晩年を送りたいんだ」と渡邉社長。幾つになっても自分のことがよく分かっていない人っているんですよね。 |
| (今回のお話は実際の話です。登場人物名は実名です。) |