「2003年6月10日」
国際交流基金 滝口 健
 
 今年の6月はKLでは雨が少ないですね。昨年は…どうだったか覚えていらっしゃいますか?
 昨年の6月10日は、KLの舞台芸術界にとって忘れられない日です。集中豪雨に伴って市内中心部で発生した大規模な洪水でマスジッド・ジャメ近辺が冠水。水は独立広場地下のショッピング・エリアをも襲い、そこに入居していたThe Actors Studioの中劇場、小劇場およびブックショップ、Dama Orchestraの事務所とリハーサル・スペースもすべて水没してしまいました。浸水が始まってからわずか30分の出来事だったといいます。スタッフは逃げ出すので精一杯、貴重な公演記録やビデオはすべて失われてしまいました。Damaはさらに悲惨で、音楽監督であるKoh Seng Chew氏が半生をかけて収集した楽譜は水と泥にまみれ、2度と使い物にならなくなってしまったといいます。
 排水が終わった後に片付けの手伝いに行ったのですが、空調も切れた地下スペースは湿度が100%に近く、蒸し暑さは耐え難いほどでした。また、水とともに入り込んだ泥の中の微生物が繁殖でもしていたのでしょうか、数分で頭が痛くなるほどの悪臭で、懐中電灯の明かりを頼りの作業は非常に大変なものでした。私自身、KLにきて初めて芝居を見た場所である劇場がめちゃくちゃになっているのを見るのは本当に心が痛みました。
 それ以上にKLの演劇界にとって深刻な問題となったのは、公演会場の絶対的な不足でした。特に小劇場は、若手劇団が気軽に、しかも安価に利用できるスペースとして非常に貴重な存在であったため、ここが失われたことは大きな痛手となりました。
 去る5月21日、こうした状況に光明をもたらす重要な発表が行なわれました。マレーシア最大の開発業者の一つであるYTL、エンドン首相夫人が代表を勤めるNPOであるPenyayang、そしてThe Actors Studioが共同で設立するKuala Lumpur Performing Arts Centre(KL-PAC)の詳細が明らかにされたのです。YTLが旧国有鉄道整備工場跡地に開発を進めているSentul Westの一角に、今年12月の完成を目標として建設が始まっているこの劇場コンプレックスは、500席の大劇場と250席の実験劇場を持ち、さらに10以上のスタジオ兼稽古場を有する大規模なものです。周囲は公園に囲まれ、都心にありながら、まさに別天地の趣があります。
 
 劇場の設計はTheatre Sense社のMac ChanとTeoh Ming Jinがおこないました。それぞれ照明デザイナー、劇場支配人としてもキャリアが長く、いたずらにスペックにこだわることなく、使用者が使いやすい劇場を目指して案が練られました。本格的なオペラハウスである国立劇場(Istana Budaya)を別格とすれば、マレーシアでも群を抜く本格的な劇場の誕生といえるでしょう。しかしながら、劇場はあくまでも入れ物に過ぎません。芝居がおこなわれなければ「何もない空間」に過ぎないのです。この新しい劇場でどのような物語が生み出されていくのか。今から期待で胸が膨らみます。
 
<本稿は日馬プレス第276号(2004年6月16日)に掲載されたものです。>
     
 
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