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日本政府が農民などの移民の対象としてマレー半島に関心を示したのは、1930(昭和5)年8月2日、松田源治拓務相から南洋協会に、「馬来半島及び邏羅国、つまりマレー担当とシャム(現在のタイ)南西部地方に、日本人が移住して自営農業をすることに適している地域があるかどうか調査して欲しい」という内容の指示を出したのが最初である。
南洋協会は、第一次世界大戦の最中の1915(大正4)年に、第二次大隈重信内閣時代に発足した。明治維新以後、世界の一流国家の仲間入りを目指し、資本主義を導入し、富国強兵策によって、日清、日露の戦いに勝利して、やっと列強と肩を並べられるようになった時期だった。「諸国の諸般の事項を講究して相互の事情を疎通し、共同の福利を増進し、もって平和文明に貢献すること」を理念とした。「欧米に比べ近くにある南洋の国々とは歴史的にも、経済的にも親しい関係にあった。しかし、南洋諸国についての日本人の知識は乏しい。南洋協会は、日本国民に南洋諸国を、南洋諸国の人々には日本をよく知ってもらいたい。友好親善をふかめることで互いの発展につなげていきたい。」として、出発した。
南洋協会は現在も、財団法人《異文化コミュニケーション財団》(東京都神田駿河台)として活動している。
1915年以前、1894,5年ごろ、マレー半島にはごく少数の日本人が農業移民として入植していた。セランゴール州には笠田直吉と中川吉蔵がコーヒー栽培を、マラッカとムアの間では愛知県出身の石原哲之助ら30名が農業を目的に入植している。
南洋協会の調査結果は「キャメロン高原の調査―英領馬来キャメロン高原を最初に法人間に紹介せるは本所にして・・・・」とされた。協会は「新たに発見された馬来の沃野キャメロン高原/土は肥え気候は温暖、邦人小企業者に好適すと云ふ」と紹介した。「タナラタ試験地の近くにあるレストハウス(写真があり)海抜4000呎(フィート)以上で時に摂氏6度前後に下がると云ふからストーブも必要・・・」とつづく。道路はリングレットまでしかなかった。タナラタには商店が10軒ほどで、開墾中の道路を行くと茶畑がさり、ゴルフ場を造成していた。
キャメロン高原が英国政府によって避暑地、保養地として開発されはじめたのは1926年1月だった。300万ドルの巨費を投じて、麓の部落のタパーから高原の頂上まで、約50マイル(約80km)の舗装道路を造り、測候所や農事試験場などを作
1930年前後、キャメロン高原には事業経営者、スルタンファミリー、英国人の引退した官吏などが別荘をもち、近くに農場をもって華僑を雇って野菜の栽培をしていた。
「野菜作りがひじょうに上手だ」と評判だったキャメロン高原の麓の部落、タパーで農業をやっていた竹内泰平に、英国人たちはしきりに「日本人の小作人を紹介してくれ」と頼んできたという。1932年に虫害によって華僑たちの農場の野菜は全滅状態だったが、竹内農場は6割の収穫だった。竹内の野菜は高値で飛ぶように売れたという。こうしたことから、英国の総督も日本のシンガポール総領事も日本人の入植には大賛成だった。
った。
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