竹内泰平が単身、馬来半島にやってきたのは1911年、24歳のときだった。当時の日本では、海外雄飛がもてはやされていた。泰平が行きたかったのは南米ブラジルだった。しかし、資金不足で馬来半島にした。もっとも、泰平の故郷の長野県更級郡村上村や近郷の仲間たち10人ほどが一緒に来たというから、誰の発案で馬来にしたかは分らない。泰平は自分の田畑や山林を売り、渡航費用などにした。泰平は1917年にキャメロン高原への登山口のタパでゴム園を開拓し、経営した。仲間たちはことごとく夢破れて帰国し、泰平だけが残った。
日清戦争、日露戦争という二つの大国相手の戦争に勝ち、第一次世界大戦が終わり、日本は戦勝国の仲間入りし、明治維新以来目指してきた一等国に大きく近づいた頃、自信に満ちた若者たちは海外を目指していたのだろう。1919年には弟の繁治が、そして、妹の夫の島崎善吉も加わり、三人で経営するようになった。面積81エーカーの農場には、竹内ファミリーを含めて日本人が10人、華僑が10人働いていた。さらに、1927年には弟の音治も加わった。
しかし、1932年頃、ゴム相場の暴落でゴム園の経営は悲惨な状況になった。キャメロン高原のタナラタの手前の街リングレットに住んでいたのイギリス人医師の妻のお徳さんに「キャメロンで花造りをしたらどうか?」と誘われて、1932年10月に泰平、繁治は家族とともにキャメロン高原に移住した。島崎善吉はタパに残り、ゴム園を継承した。音治はシンガポールに移って行った。
泰平はまず、リングレットの奥のハッピーバレーを開墾し、野菜やカンナ、ダリアといった花の栽培をした。この農園は新たな入植者に譲り、翌1933年にはリングレットに50エーカーの土地を得て、隠元豆、白菜、カンコン、ジャガイモ、キャベツ、イチゴの栽培をはじめた。泰平は豚の飼育などもはじめた。繁治は野菜にこだわり、とくにトマトでは有名になりシンガポールの英国人が経営する“Cold Storage”に独占的に納入していた。
日本人が作った野菜は清浄野菜として評判がよく、少々高めでも人気があった。華僑の農夫が日本の技術を真似てトマト作りをしたがうまくいかなかったという。イチゴの栽培では花芽づけがうまくいかずに辛苦に辛苦を重ねて改良した。農業試験場の研究者が「イチゴとキャベツは日本人にかなわない」と言うほどだった。
1934年に日本人入植者が共同出荷するための「カメロン高原日本人農産組合」を設立して、リングレットに事務所を置いた。カメロン日本人会もできて、竹内泰平は組合長であり、日本人会会長として活躍した。(農産組合と日本人会の木造の事務所は今はなく、同番地には四階建てのビルが建っている。)
日本軍の中国大陸での戦闘が激しくなると、華僑たちの間で排日運動が激しくなり、日本人の生産した野菜を買わなくなったり、労働者として雇っていた働き者の華僑たちが辞めていった。代わりに、インド人やマレー人を雇ったが働かなくて困ったという。
1940年をすぎると、日本と英国との関係も悪くなり、状況は悪化の一途をたどった。泰平も繁治も、シンガポールの音吉に頼んで家族を日本に帰した。1941年春には泰平も帰国した。11月には繁治夫婦も最後の引き揚げ船で帰国した。島崎は終戦までゴム園に残った。いったん戻ってきた泰平もシンガポールの音吉も家屋も家財道具も親しくしていた華僑に譲り渡した。音吉が勤めていた沙加乃商会の社長の坂野氏は、日本軍のシンガポール占領後、商売仲間で親交のあった華僑商人のチン・ヨクチー氏が抗日華僑の粛正をしていた日本軍に捕まり処刑されそうになったときに、必死の工作をしてすくった。板野氏とチン氏の友情は戦後もずっとつづいた。音吉は捕虜として拘留され、インドに抑留された。泰平は日本軍占領下のイポーで紙会社を経営し、儲けたという。
キャメロン高原に入植した日本人たちは1937年には20名の氏名が記録されている。
彼らは一様に苦力(クーリー)たちの排日運動の影響を受けた。よく働き、独立心が旺盛なクーリーたちは、野菜の栽培法をよく覚えて役にたったが、反日気運が盛り上がると、農場を去り、自力で農園を開発するようになった。華僑たちは作物の買取りも拒否するようになった。そして、日本人入植者たちは戦争の気配が濃厚になると家族を日本に帰した。もちろん、本人たちも帰国するものが何人もいた。
太平洋戦争がはじまると、馬来にいる日本人は捕虜としてインドに送られた。開戦前にいったん帰国して、馬来半島に戻った人たちは終戦と同時に、捕虜として強制的に拘留された。
太平洋戦争が終わって60年あまりすぎた現在、“キャメロン・ハイランド産”のトマトやキャベツといった野菜やイチゴは高級食材としてのブランドとなっている。キャメロン高原で最高級の品質の野菜が作られるようになったのは、戦前の日本人農業移民の人たちの技術と努力を受け継いだ華僑系の農場経営者たちだ。今、わたしたちが毎日のように食べている高原野菜は、日本人と中国人の合作だと言っても過言ではない。「反日」を叫んだ華僑の人たちも、日本人農場主の技術と努力は尊敬していた。
60年、70年前、キャメロン高原に住んでいた日本人は、地元の人々に尊敬されていたのだ。わたしたちはそれを忘れてはならない。現在、ロングスティと称してキャメロン高原に滞在している日本からやってきた多くの中高年の皆さん、日本人としての矜持(きょうじ=誇り、プライド)を忘れないでほしい。
*アジア経済研究所発行「英領マラヤの日本人」原不二夫著を参考にしました。
苦力(クーリー)
元々はインド人などアジア人の単純労働者の総称で、奴隷制度が廃止された欧米での新たな労働力として、低賃金で過酷な労働をさせられていた。のちに欧米人の資本家たちは、世界中で働き者の中国人を奴隷同様に使うようになり、中国人はクーリーに「苦力」という門司を当てはめた。1900年代には苦力といえば辧髪の中国人労働者を指した。
清の時代に、敵味方の区別をつけるために、清朝の出身である満州族の風習であった辧髪(べんぱつ)を漢民族にも強要した。辧髪は苦力のシンボルでもあった。 |