◎アメリカ人権外交との勝負
 

歪曲されたマハティールの主張

 1997年7月29日、クアラルンプールで開催されていた東南アジア諸国連合(ASEAN)拡大外相会議終了後、参加した19人の外相がそろって記者会見した。

 「過度な自由は逆に民主主義を破壊することもある。我々には我々のやり方がある」と口火を切ったのは、現マレーシア首相のアブドゥラ外相。続いてインドネシアのアラタス外相が、「(政治的権利だけでなく)経済的、文化的な権利も保護されるべきだ」と指摘した。

 この会見の2日前、マハティール首相は現地メディアとの会見で、世界人権宣言の見直しを提唱していた。この宣言が採択された当時(1948年12月10日)の国連加盟国数は60余カ国に過ぎず、植民地だった大半のアジア諸国は参加していなかった。だからこそ、マハティールは貧しい国々が本当に必要としているものを十分に理解していない大国によって宣言が作られたと指摘したのである。

 確かに、世界人権宣言が採択された経緯や当時の状況は、その性格に大きな影響を与えている。戦争が終結し、ナチスによるユダヤ人虐殺をはじめとする枢軸国による人権侵害が世界平和に対する重大な犯罪として裁かれた時代に採択された点は見逃せない。したがって、宣言は全体主義や独裁に対する敵意に支えられ、政治的自由を重視することとなったのではないか。

 しかし、人権には政治的権利だけでなく、社会的権利や文化的権利がある。言論の自由が保障されているかだけに注意し、飢餓や貧困の問題に注意しないのは、バランスを欠いているのである。マハティールの真意も、世界人権宣言が本来多様な内容を含むべき人権のバランスがとれていないということを指摘することだったに違いない。大沼保昭氏も「人権が社会権や民族自決権を包摂できないのであれば、人権は世界の大多数の人々の希求と無縁であることになる」と書いている(「文際的人権を求めて」(『東亜の構想』筑摩書房)。それは、アジアの文化が十分に反映されていないということでもある。

 冒頭の記者会見に戻ろう。会見ではASEAN各国の外相が、「たとえ国連憲章であっても見直す権利はある」、「人権宣言が制定された当時は、大半の国は独立していなかった」とマハティールの提起を支持した。

 これに対して、アメリカのアイゼンスタット国務次官は、「(マハティール首相の)見直し案には驚いた。第二次世界大戦の殺戮の後に採択された人権宣言は、時間を超えた普遍的な価値を持つもの」だと反論した。

 ここでは、アジアとアメリカの人権論争はうまくかみ合っていない。アメリカは、人権は人類にとって普遍的価値であると叫ぶだけで、人権の中身について積極的に議論する姿勢を示していない。そればかりか、マハティールの立場は、人権の普遍性を否定し、独裁体制を容認するものと歪曲されたように見える。

 マハティールの要求は、アメリカが人権を一方的に定義するのではなく、アジアの主張を取り入れて人権思想を構築すべきだということにつきる。これは、人権の発展にとって建設的な主張である。


アジア的民主主義の模索

 アメリカ型人権は絶対ではないと言い切ったマハティールの主張は、戦後封印されてきたアジア人の主張の復活を意味する。それは独裁体制や全体主義体制とは異なる、もう一つの民主主義の模索なのではなかろうか。

 マハティールは、「個人の自由や権利を優先して共同体への責任が欠けがちな西欧流民主主義とは異なる」民主主義を標榜した(『朝日新聞』1994年10月31日付朝刊)。1991年にマハティールが打ち出した長期ビジョン「ワワサン2020」にも、コンセンサスを重視した、共同体志向のデモクラシーを確立することが掲げられていた。これは、人権に背を向けた権威主義体制などではなく、アジアの文化に根ざした民主主義の模索である。

 権利と責任を一体のものとする考え方は、アジア社会に共通する伝統でもあろう。世界人権宣言が起草されていた当時、ユネスコのジュリアン・ハクスリー事務総長から宣言についてコメントを求められたマハトマ・ガンジーは、コメントすることを断り、いみじくも「権利と責任は不可分のものであるから」とだけ語ったという。

 ガンジーは、西洋近代の思想と対峙していた。それを支えていたのは、信仰によって支えられた宇宙の真理であったろう。神道や仏教などの宗教的な思想が生きていた戦前の日本にも、欧米型デモクラシーを超えるものを模索する者はいた。

 遡れば、自由民権運動のシンボルと理解されてきた民撰議院設立建白書(明治7年)の冒頭にも、「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而も独り有司に帰す」と謳われていた。坂本多加雄氏が指摘している通り、天皇と人民との間の回路を遮断している「有司」に対する批判であり(『産経新聞』1998年12月16日付朝刊)、そこには自由民権派が「君民一体」の思想を基礎とした独自の民権思想を築こうとした貴重な試みの跡が見られる。それは、宇宙の真理に基づく全体の調和への志向である。この志向は、その後、大正、昭和を通して欧米思想に対峙した興亜論者の思想と行動に引き継がれていったのではなかろうか。

 ところで、クリントン時代にマハティールだけでなく、ASEAN諸国が人権に関する独自の主張を活発に展開するようになったのは、クリントンが人権外交を採用したからにほかならない。それは、同じ民主党のカーター政権の再来でもあった。1977年に発足したカーター政権は、サハロフ、ソルジェニーツィンらソ連の反体制活動家を支援したほか、韓国、中南米の人権に対しても警告を繰り返した。国務省に人権・人道問題局が新設されたのもこの時代だ。

 クリントン政権の国務長官に就いたウォーレン・クリストファーは、国務副長官としてカーターの人権外交を推進した人物である。さらに、人権・人道問題担当の国務次官補に就いたリチャード・シフターも筋金入りの人権派である。彼の両親はナチスに殺害されている。ここには、世界人権宣言採択の原動力だったナチス断罪のメンタリティの継承さえ感じられる。


連合国の歴史観と人権論

 いずれにせよ、マハティールの主張はアジアの宗教、文化による人権論の構築への突破口を開く可能性のあるものだった。 しかし、その壁はなお厚い。それは、勝者である連合国によって確立された現在の国際秩序と人権論とが密接な関係にあるからなのではないか。注目すべきは、世界人権宣言の起草と同時期に、連合国による枢軸国の一方的断罪が行われ、一つの歴史観が作り上げられたことである。それは、枢軸国の思想を悪とし、連合国の思想を善とするドグマである。これによって、第二次世界大戦は「日独全体主義に対する英米民主主義の正義の戦争」とされたのである。

 「正義」の側としての立場を維持するため、アメリカは政治的自由を中核とする人権観を手放すことができないのではなかろうか。そうした人権観を後退させることは、アメリカの人権思想の相対化を招き、戦前の日本の興亜論者たちが試みた、日本文化、アジア文化に根ざした人権思想の構築に対する再評価をもたらす。ひいては、連合国が作り上げた歴史観自体を崩壊させることになるからである。その結果起こることは、アメリカを中心とする戦後の国際秩序の動揺であろう。

 だからこそ、アメリカはアジア的価値観=全体主義という誘導によって、アジアの文化に基づいた人権思想の模索を再び封印したいのではないだろうか。しかし、変化は起こりつつある。前出の大沼氏も、東アジアの伝統と文化を踏まえた人権の再構築の重要性を指摘している。アジア人も独自の文化に基づいた人権論の構築に参画するときである。

(肩書きは当時のものです。なお敬称は略させていただきました。)

 
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