◎白豪主義との勝負
 

アボリジニ虐殺の歴史

 2002年12月1日、オーストラリアのハワード首相は、近隣の東南アジア諸国で活動するテロ組織が同国に対するテロ攻撃を計画した場合、先制攻撃を行う用意があると語った。このハワード発言は、同年10月に起きたバリ島爆弾テロで多くのオーストラリア人が犠牲になったことがきっかけとなってはいた。

 しかし、この発言に東南アジア諸国は一斉に強い反発を示した。翌2日には、マハティール首相が「アボリジニを銃で撃っていた時代のような、西洋人の価値観を押し付ける傲慢な発言だ」と厳しく批判した。

 ハワードとマハティールの争点は、テロに対する対応の方法という安全保障政策をめぐる見解の相違には違いない。だが、マハティールの怒りの根底には、白豪主義の残存への反発があったのではなかろうか。

 マハティールが、白人がアボリジニを銃で撃っていたことを引き合いに出したのは、アングロサクソンをはじめとする欧米の帝国主義的傲慢さと現在のオーストラリアの姿勢との関わりを示唆するためであったろう。ただ、現在のオーストラリアだけを見ていては、マハティールの批判の意味は充分にわからない。今回は、オーストラリアの成り立ちにまで遡って、マハティールの真意を考えてみたい。

 イギリス人の探検家クックが、シドニー郊外のボタニー湾に上陸し、イギリス領有を宣言したのは、今から235年前の1770年のことである。その18年後の1788年1月、イギリスはオーストラリアを囚人流刑の為の植民地とすることを決定し、フィリップ海軍大佐率いる流刑船団が上陸した。

 だが、そのときすでにオーストラリアには、先住民アボリジニが生活していた。約8万年前に東南アジア方面から渡来したとされる先住民である。フィリップらが入植を開始したときのアボリジニの人口は約75万人だったとされている。彼らは、狩猟採取民族で、自然を崇拝し、自然共生の生活スタイルを守ってきた。その文化としては、世界最古の管楽器とも言われるディジュリドゥや洞窟に残したロックペイントなどが知られている。しかし、アボリジニは白人に虐殺されたり奴隷にされたりして急速に減少していった。

 

白豪政策の確立

 やがて、オーストラリアでは、金、石炭、鉄鉱石などの資源が発見され、移民が拡大していく。特に、中国系移民の流入が活発になった。こうした状況に対して、アングロサクソン優位のオーストラリアを維持しようとするニュー・サウス・ウェールズ州(以下NSW)は、1888年に中国人制限及取締法を制定した。さらに、1896年の植民地会議では、中国人排斥法を非ヨーロッパ系の全有色人種へも適用することを決めた。この有色人種排斥案は、中国人排斥案と異なり、大衆の要求によって生まれたものではなく、本質的にアングロサクソン社会の建設を希求した政治家のイニシアティブで上程された(竹田いさみ「白豪政策の成立と日本の対応」『国際政治』68号、26頁)。結局、NSWはこの法案は可決せず、1898年7月に語学テストによって移民流入を規制するナタール法を可決したが、実質的には有色人種排斥であった。そして、1901年12月、オーストラリア連邦議会は移住制限法を可決し、連邦として統一的な白豪政策を確立した。

 やがて、日露戦争における日本の勝利は世界の有色人種に大きな自信を与え、植民地解放運動が昂揚していく。そして、日本でも興亜論者を中心に白人に対する人種差別撤廃要求が盛り上がり、1919年には第1次大戦後のパリ講和会議に全権として赴いた西園寺公望、牧野伸顕の二人が国際連盟規約に人種平等条項を盛り込もうと試みた。だが、この条項に対するイギリスやオーストラリアの反発は激しかった。同年2月13日、牧野は国際連盟委員会で日本側の提案を正式に表明した。これに対して、オーストラリアのウイリアム・ヒューズ首相は、この条項が盛り込まれれば、オーストラリアは国際連盟に参加しないと述べて激しい抵抗を示した。結局、日本の提案は葬られたのである。こうした白人優越意識を清算することなく、オーストラリアは第2次世界大戦勃発まで、アジアにおけるイギリスの植民地支配の補完勢力として、各国に進駐していた。アングロサクソンのアジア支配の手先としてのオーストラリアという構図こそ、いまなおアジア諸国の民族感情に大きな影響を与えているのである。

 

白豪主義の残存

 アボリジニは、1967年の国民投票でようやく市民権を得た。1993年には、労働党のキーティング政権がアボリジニの土地所有権を認めた「先住民権原法」を制定した。白豪政策も後退していった。1970年代には、労働党政権がアジア移民の受け入れ促進に転じ、白豪政策は放棄された。

 だが、オーストラリア社会から白豪主義が一掃されたわけではない。1997年には、クインズランド州選出の連邦下院議員だったポーリン・ハンソンがワン・ネーション党を旗揚げし、白豪政策を彷彿とさせる排他的主張を展開した。同党は、1998年6月に行われたクインズランド州議会選挙で、アジア系移民の停止、アボリジニ優先政策の撤廃などを主張して闘い、11議席を獲得、第3党に躍り出た。その後、同党の勢力は後退したものの、アングロサクソン系には、なお白豪政策への回帰志向が残されていると見られる。

 だからこそ、アジア諸国との関係強化を志向したキーティング政権に対しても、マハティールは警戒感を解かなかった。マハティールは、オーストラリア国民全体の白人優越意識が根本的に変化しない限り、同国と対等の友好関係を築くことは難しいと考えたに違いない。東アジア経済協議体構想への参加を希望するオーストラリアを頑なに拒んだのも当然のことである。

 

ハワードとの勝負

 マハティールはキーティングとも激しい舌戦を演じたが、自由党のハワード政権に対してはさらに厳しい態度をとった。ハワードとの対立は、まず1999年の多国籍軍の東ティモール国際軍をめぐって激化した。同地の治安回復は確かに重要な国際貢献に違いない。問題は、ハワードが東南アジアの人々の感情に配慮しなかったことにある。彼は、1999年9月に発行された『ブレティン』で、(1)軍事予算を増やし、アジア地域の安全保障でアメリカの代理を務めたい(2)アジアの一員に加えてもらえないかと悩むより、オーストラリアの価値観を守りたい――などと述べ、この持論を「ハワード・ドクトリン」と名づけた。

 まさにこれは、アングロサクソンのアジア支配の手先という、かつての記憶を呼び覚ますものだったのではないか。

 このハワード発言に対して、マハティールは「豪州はアジアの警察官として、米国の代理人となることを口にしはじめた。これはまったく傲慢である。豪州は自分たちはアジアの国だと主張するが、アジアに対し殿様顔をすることしか考えていない」と激しく批判した(『毎日新聞』1999年10月11日付朝刊)。

 そして、同時多発テロ事件以降、オーストラリアは対米関係強化に向かい、2003年にはイスラーム過激派のテロに対抗するアメリカの政策の補完する形で東南アジアへの関与を積極化させた。これに対しても、マハティールは強く反発したのである。2003年10月には、「警察官を気取って他国の政策に干渉するオーストラリアはアジアのパートナーになれない」と断じている。

 マハティールはオーストラリア批判の急先鋒だった。それを頑なな姿勢と見るか、当然の対応と見るかは、白豪政策を掲げてアングロサクソンの手先としての役割を演じた、オーストラリアの歴史をどう見るかにかかっている。

 
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