ジョージ・ブッシュとの勝負
 
イラク攻撃を厳しく批判

 2003年3月3日、マハティール首相は自ら主宰した非同盟諸国首脳会議が成功裏に終わったことに対して、クアラルンプール市民に感謝の意を表明し、3月6日から長期休暇に入ると述べた。そしてカタールでの公務を経て、休暇を過ごすため南米へと向かった。この休暇には、10月の引退を前に後継のアブドラ副首相に首相職を代行させる意味もあった。
 ところがその直後、イラク情勢は一気に緊迫、3月18日朝(日本時間)ブッシュ大統領は、イラクのフセイン大統領と息子らが48時間以内に亡命しなければ武力攻撃に踏み切ると演説した。これに対して、首相代行のアブドラは、アメリカの姿勢を厳しく批判する一方、最後まで戦争回避に向けた努力を継続すると語った。
 しかし、3月20日午前アメリカはイラク攻撃を開始、すぐに小泉首相は攻撃を支持した。同日午後、マハティールはブラジルから急遽帰国、翌21日には休会中だった下院に対し、アメリカのイラク攻撃についての討議を行うよう求める動議を提出した。下院は3月24日に開かれ、マハティールはアメリカとその同盟国によるイラク攻撃を即時中止を求める動議を提出した上で、次のように厳しくアメリカを批判した。
 「アメリカは国際法、人道、正義に背いて、自衛力のないイラクを侵略し、世界の歴史に汚点を残した。……一方的な先制攻撃は国連憲章も国際法も認めていない。……アメリカの対イラク開戦はテロリズムを撲滅できないだけでなく、逆にテロを助長する。われわれは不正義と圧迫を見て見ぬ振りをすることができない」

バンドン原則と非同盟の精神

 マハティールにとって、軍事力による解決というアメリカのやり方は容認できないものだった。彼はイラク攻撃だけではなく、これまで敵と味方に二分し、敵を力でねじ伏せようという冷戦的発想と闘い続けてきた。その闘いは、冷戦の論理自体を超えることを模索して1955年に開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)や、その精神を継承して1961年に発足した非同盟諸国会議の理念を受け継ぎ、体現することでもあった。
 バンドン10原則には、「主権の尊重」、「全ての国の平等」、「内政不干渉」、「平和的手段による国際紛争解決」などが盛り込まれている。一方、非同盟運動の原則は、「民族自決権の確立」、「帝国主義・新旧植民地主義・人種差別・覇権主義への反対」、「諸国家の対等、平等。大国の干渉、介入反対」、「軍事同盟にもとづく外国軍および軍事基地の撤去」、「国際緊張の緩和、平和共存、全面・完全軍縮」などに整理できる(岡倉古志郎『非同盟研究序説』) 。
 確かに、世界が2つの陣営に分かれて激しく対立する状況において、中立を保つことは容易なことではない。対立を武力ではなく、すべて話し合いで解決しようというのも、理想的過ぎる。
 しかし、マハティールは大国の力への依存は、主権の喪失を招くとともに、対立を永続させることにしかならないと信じつづけてきた。だからこそ、彼はASEANを非同盟的な理念に基づいて発展させようとしてきたのである。
 もちろん、米ソ冷戦時代の1967年に発足したASEANには、反共連合としての色彩もあった。だが、ASEANはバンドン原則と非同盟の精神を受け継いでもいた。多くの場合、その精神を積極的に継承しようとしてきたのが、バンドン会議を主宰したインドネシアとマレーシアである。
 1971年には、マレーシア第2代首相ラザクが「東南アジア平和・自由・中立地帯」(Zone of Peace, Freedom and Neutrality=ZOPFAN)構想を提唱し、大国の干渉を排除した独自の安保への道のりが開始された。その5年後の1976年には、東南アジア友好協力条約(Treaty on Amity and Co-operation=TAC)が調印されている。TACは、国連憲章、バンドン10原則、東南アジア諸国連合宣言等の精神と原則に従うことを明文化しており、主権の尊重、内政不干渉、紛争の平和的解決などを規定している。

東南アジア非核地帯条約

 ただし、冷戦下においては、東側陣営に対する安全保障を確保するために、アメリカの軍事力への依存を深める国もASEAN内に存在した。ASEANは理想と現実に揺れていたのである。1980年代初頭には再び米ソ対立が激化し、アメリカとASEANの一部、ソ連とベトナムの軍事協力が活発になった。
 これに対して、マハティールは1984年に東南アジア非核地帯(South East Asia Nuclear Weapons Free Zone=SEANWFZ)構想を提唱した。東南アジアの領土、領海、領空、大陸棚、経済水域を非核地帯とし、核兵器の製造、所有、実験を禁じるほか、域外国による核兵器の配備や実験も認めないという構想である。考え方自体は、1981年頃からあるが、それをマハティールは再び目標に掲げたのである。しかし、国内に米軍基地を持つフィリピンなど、ASEAN内部の結束は容易ではなかった。
 やがて、1989年に米ソ冷戦は終結し、東南アジアのイデオロギー対立も緩和へ向かった。この国際環境の変化を受けて、マハティールはアメリカの軍事力に依存した安全保障体制からの脱却を進めてきた。同時に、アメリカの中国敵視政策と距離をおき、相互利益に基づいた関係強化を推進してきた。
 1995年12月には、SEANWFZ条約が調印されている(1997年に発効)。また、2003年10月には中国とインドがTACに加盟した。バンドン精神を継承したASEANの理念、つまりブッシュが鮮明にしている力の政策の対極にある理念が、ASEAN域外にも着実に共有されつつある。

地域海洋安全構想の波紋

 確かに、テロへの対処は従来の安全保障とは別の難問をつきつけている。マハティールは、テロに走るイスラーム過激主義を厳しく批判するとともに、テロに対する国際的な協力にも積極的に動いた。2002年5月には訪米してブッシュと会談し、テロとの戦いの共闘を強調している。
 しかし、テロとの戦い、地域の治安維持の名のもとに、アメリカの軍事プレゼンスが拡大することには反対の姿勢を貫いた。何よりも、彼はテロへの対処はテロの温床となる経済的、社会的不満を解決することが先決だと主張してきた。
 その後マハティールは引退、アブドラが首相に就いたが、このマレーシアの姿勢は一貫している。
 マラッカ海峡におけるテロへの警戒感が強まる中で、2004年5月にアメリカのファーゴ太平洋軍司令官は地域海洋安全構想(Regional Maritime Security Initiative=RMSI)を提唱した。テロリストや海賊などに対し、米軍がアジア太平洋地域の有志諸国と共同で、正体の識別、行動の監視、海上阻止等を行うという構想である。
 だが、マレーシアのナジブ副首相兼国防相は、マレーシアの過激派対策は、軍事力を行使するハード面以外に、教育や経済の改善でテロの背景にある潜在的な不満や問題に取り組むソフト面を重視してきたと主張するとともに、「外国軍の大規模なプレゼンスは(地域の安定に)逆効果だ」と述べ、RMSIに明確に反対している(『朝日新聞』2004年6月10日付朝刊)。
 当初、イラク攻撃についてのブッシュの主張は同盟国を中心にかなりの支持を得ていた。だが、いまやアメリカにおいてさえ、多くの国民が力の政策の限界を感じるようになっているのではないか。
 強者の声は伝わりやすい。そして、それに対する異論の声はかき消されやすい。だが、マハティールは揺ぎない信念に基づいて、持論を唱え続けてきた。
 相手がいかに強大だろうと、臆することなく正面から批判し続けた。だからこそ、彼の発言はときに大きな波紋を呼び、激しい論争をもたらした。
 この連載では、マハティールが闘った勝負のうち、重要なもの十を選んで取り上げてきた。最終的な決着のついていない勝負も少なくない。それは、彼の主張がいかに本質的、根源的なものであるかを物語っている。マハティールの勝負は、歴史に記録されるだけではなく、今後も引き続きわれわれの課題として残されている。

 
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