私の周りの誰もが「セペッ」を最高のマレーシア映画だと好意的に評価していた。けれども、どっかの団体の奇妙なコメントが、ある日新聞に掲載された。それを読んだとき、私は怒りを超えて、逆に恥ずかしくなってしまった。彼らのコメントは、マレーシアのイメージが悪くなるなどといった内容で、「ずいぶんと外面だけを気にしているのだなあ、どこの国だって人間がいる限り、同じようなことが起こっていて当たり前なのに」と感じた。美しいことばかりではない。いろんな形の恋愛あり、間違いあり、犯罪あり、だ。
さて、この映画で私が一番心動かされたのは、微妙な部分であえて何も語らせない、無言で語らせる細やかなその感情描写だ。香港映画の『カンフーハッスル』が動的だとしたら、セペッは静的だ。また『カンフーハッスル』に広東的シュールなユニークセンスが所々散りばめられているように、ここにもマレー的シュールなユニークセンスが見られる。大人にしたら些細なことでも、揺れ動く十代にとったら必死の愛。若ければ若いほど犯しやすい過ち。壊れやすく繊細な感情。誰もが直面する個人的な問題。そしてさらに民族・文化というセンシティブな問題。民族や宗教を超えた恋というのが、日常的と言ってよいのか、または非日常的と言ってよいのか統計値があるわけでもないのでわからない。でも、こうした異民族間の恋愛には、まわりからどう受け入れられるか、戸惑いや不安は必ずあるものだ。最後、お互いの強い気持ちが伝わるラストシーンでは、謎がありながらも満足感に浸れる。
身近に異民族同士の若いカップルは意外にいる。今の若い世代は昔の大人たちより垣根を越えているせいか、また、彼・彼女たちの親が異民族同士の結婚で、自分達がハーフだからか、民族や宗教がどうのこうのと世間が騒いでいるような分断意識は見当たらないような気がする。マレー人の彼女を持つチャイニーズの男の子は、金曜日にモスクに出現するし、断食もトライしようとする。もちろん、地域にもよるのだろうが少なくとも都会では、ラットの描いたタウンボーイのような、民族が異なる文化を持つゆえに生じる異文化への驚き、戸惑い、ぎこちない友情関係のスタートということはないように思うのだ。彼らは、異文化なんぞにはもう珍しがらず、押すところは押して、引くところは引いて、うまく状況の波にのり、その場をあしらっている。綱渡りが上手というのは、このことか。
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