<番外編>

食 風 ベトナム編
第1部 大嫌いだったヴェトナムなのに
 ▲ヴェトナムに行くことになった。▼
 数年前まで、わたしはヴェトナムが大嫌いだった。十年余り前にHCMC(ホーチミン・シティ)に行ったとき、某テレビ局でシクロ(三輪自転車タクシー)のドライバーと日本人女性の連続ドラマが放映されたり、某大手旅行代理店が人のよさそうなシクロのドライバーをヴェトナム観光の広告に使ったりした。「ヴェトナムに言ったらシクロに乗ろう」と誰もが思うような舞台設定があった。だから、HCMCに行ってすぐにシクロに乗った。料金交渉をした。「1USドル」で妥結。目的地のホテルの手前50メートルの手前で「着いた」といわれたので1ドルをだした。そうしたら、ドランバーは「10ドルだ」と言い出した。「1ドルといったじゃないか」、「いや、10ドルだ」。わたしは1ドル札をひらひらさせてホテルに向かって歩きはじめた。ベルボーイがこちらを見ている。そうしている間に、ドライバーは1ドル札をひったくっていった。
 こうしたことが3度あった。そして、ホテルのレセプションに文書で頼んだことも、「そんな約束はしていない」と拒絶された。この国では約束が約束ではない。会う人のすべてが“うそつき”に思えてならなくなってしまった。政府がではない、すべての人が信用できないと感じた。
 
▲進歩、変革の証、「安全さ」と「快適さ」▼
 二十代の頃(40年近い昔)、社会主義国家というのは国民のすべてが善人で働き者の理想社会だという幻想がなかったわけではなかった。中国で起こった文化大革命がどんなにびどいものだったか、まったく伝わってはいなかったし、日本社会党は「北朝鮮はこの世の楽園」というようなことを言っていた。べ平連(ベトナムに平和を市民連合)が盛んに反米運動を繰り広げていた。圧倒的な軍事力を誇るアメリカを、ホーチミン率いる北ヴェトナムは、1975年4月30日、南ヴェトナムの首都だったサイゴンから追い出した。社会主義の勝利だった。東西冷戦の真っ只中、社会主義国家が活発に動いていた。大学生や労働者の中に「毛沢東語録」をもっているものがおおぜいいた。
 国民のすべてが善人で働き者だったら、理想の国家が生まれる。社会主義、共産主義とはそういうものだ。毛沢東もホーチミンも、金日成もすごい指導者だと思った。おそらく、カンボジアのポル・ポトもそんな理想を描いていたのだろう。ほかの指導者たちのイメージはともかく、ヴェトナム初代国家主席のホーチミンの容貌は信頼に値するものだった。清貧を重んじ、国家と国民のためを真剣に思う指導者だと感じた。
 しかし、どの社会主義、共産主義国家も、国民の多くがその思想を理解していたのではなかったのだろう。人はできれば働かずに富を得たいと思う。横着ものの発想が発明、とくに電気製品の発明や発達を生んでいる。人間は本来、横着な生き物なのだ。罪にならないなら、人のものを奪っても痛痒を感じない人も多い。わが国にはそんな人物はいないというなら、理性よりも貧困と金銭欲のほうが凌いでいたのかもしれない。日々進化する国際社会で生き延びるために体制の変革が必要だった。1986年からドイモイ(刷新)と呼ばれる市場経済化が進められ、いったんは海外からの投資も活発になった。旅行者も大勢きた。それが潮が引くように減ってしまった。
 1996年に新たな社会政策によって都市と農村との所得格差を是正する動きがあった。外国資本や旅行者の受け入れ態勢も進んだ。元々、勤勉で知的能力のある国民が多い。ずいぶん変わった。前回訪問したときから、「だまされる」、「危険だ」と感じることはない。社会が着実に進歩していると感じる。
 わたしたち外国人旅行者にとって一番ありがたいのはまず「安全」、ついで「快適さ」だ。町を歩いていて危険を感じない。数年前にいたスリやぼったくりシクロもわたしには見えなかった。ただ、100メートル歩く間に、4、5回はシクロやバイクタクシーに声をかけられるし、小遣い稼ぎの子供たちのみやげ物売りに付きまとわれるのが嫌だった。でも、かってほど、執拗に付きまとうようなことはなくなった。何もしないで、寝そべったきりで手だけ出して缶からをふって金銭をねだる、どこかの国の乞食より数十倍ましだと思いつつ歩いていた。
 
▲ヴェトナムの歴史を知らないと、フエもホイアンも説明できない▼
 ヴェトナムといえば、まずヴェトナム戦争、そして、ヴェトナム難民を思い出すほど1960年から89年代にかけてのこの国の印象は強烈だった。しかし、その歴史は紀元前8000年の新石器時代にさかのぼる。メコンデルタ北西部の山岳部にホアヒン文化とよばれる遺物が発見された。ついで、青銅器時代がはじまり、紀元前後にドンソン文化で最盛期を迎えた。
 紀元前111年、広東に都があった南越王国が漢の武帝によって滅ぼされ、紀元1世紀中盤から大量の中国人が流入した。7世紀にはハノイ付近に安南都護府が置かれ、最後には現在のヴェトナムの大部分は漢の支配下になった。紀元1世紀頃の歴史には後漢や呉が登場しておもしろい。ヴェトナム最南部の日南郡に興った林巴王国(のちに中部で栄えたチャンパ王国になる)は東西貿易の中継地として栄えた。
 9世紀、安南都護府は陥落。中国の唐末期の混乱に乗じて独立の機運が高まり、広東にできた南漢政権の軍を、938年に呉権(ゴ・クェン)が破って独立を果たした。ゴ・クェンの死後の群雄割拠時代を966年に、メコンデルタ地方の水上勢力の勇将ディン・ポ・リンが制し、国号を大瞿越(ダイコベト)とした。リンの死後、帝位を奪った黎桓(レ・ホアン)はチャンパを制した。993年、宋はホアンを交趾郡王に封じ、その独立を承認した。
 しかし、このレ王朝は1009年にリ・コン・ウヮン(李公蘊)にとって代わられた。リ王は都をタクロン(現在のハノイ)に移し、国号をダイベト(大越)とし、初の長期安定政権の礎を築いた。しかし、現実に権力が及ぶのはタクロンから南シナ海へのデルタ地帯だけで、大部分は地方の豪族の半独立的支配下にあった。リ王朝は宋の侵略を破り、チャンパも打ち破って中央集権を目指したが、地方豪族との内戦がつづいた。13世紀、デルタ地域を掌握していたチャン(陳)氏の勢力が権力を握った。チャン王朝も地方領主と私兵都からなる封建領主的支配だった。13世紀末、ユーラシア大陸の覇者となりつつあった元が三度にわたって侵攻してきたが、チャン・フンダオ(陳興道)ら王朝の一族の領主と私兵によって撃退した。その後、科挙出身の高級官僚らが権力を得て、1400年に彼らと共闘したホー・クイ・リが帝位を奪った。しかし、ホー王朝は1407年、明の干渉を受けて滅亡した。
 1428年、レ・ロイ(黎利)によって明軍は撃退され、ヴェトナムは再度の独立を果たした。レ王朝の元、ヴェトナムは律令的集権国家体制がとられた。レ王朝も宮廷内部の抗争から1527年い、マク(莫)氏が帝位を簒奪した。これに対抗し、グェン・キム(阮金)はチン(鄭)氏とともにレ王朝の王子を擁し、内戦状態になった。チン氏はハノイを攻略し、マク氏は北方山岳地方に拠点を移した。一方、グェン・キムの子のホアンはフエを拠点としたクァンナム(広南)朝を興した。三者の争いがつづく間に、律令体制は崩れ、村落共同体という意識が強まった。地方の独自性が強まり、フォヒエン(フンイェン)、フェイフォ、トゥーラン(現在のダナン)といった国際貿易港が生まれた。その一方で、戦乱と自然災害などで流民化する農民がふえた。
 1771年、クィニョンのグェン(阮)三兄弟がタイソン党革命を起こし、75年にクァンナム王朝を滅ぼし、86年にはチン氏を倒し、レ帝を中国に追い出した。さらに89年には清の軍隊をハノイで撃破し、タイソン・グェン朝となった。一方、18世紀前半に、南部のクァンナム王朝はメコンデルタ一帯支配していた。クァンナムの皇子グェン・フォック・アイン(阮福瑛。のちの嘉隆帝)はフランス義勇軍やタイぼ援助によって北上、1802年、ヴェトナムのほぼ全土を掌握した。グェン(阮)王朝の成立だった。1804年、国号をヴェトナム(越南)とした。グェン朝では清の制度が導入され、二代ミンマン(明命)帝時代には行政の中央集権化を確立した。富裕層と流民との問題が深刻化し、内乱が各地で起きた。
 1862年、極東侵略の足がかりを模索していたフランスは第一次サイゴン条約によってメコンデルタの権益を奪い、19世紀終盤にはカンボジアを含む仏領インドシナを構築した。
 
▲江戸時代初期、東南アジア各地に日本人町▼
 ここまでが、今夏の旅行の予習となる歴史学習だ。これくらい知らないと、フエやホイアンを歩いてもおもしろくない。16世紀末の戦国時代末期から、17世紀初頭の江戸時代初期にかけて、日本の交易商人たちはこぞって東南アジアを目指した。いわゆる朱印船貿易だ。一方で、関が原の合戦に敗れ、大坂冬の陣、夏の陣に敗れた武士たちの多くが新天地を夢見て東南アジアに向かった。ルソン(フィリピン)、アンナン(ヴェトナム)、プノンペン(カンボジア)、ジャガタラ(ジャカルタ)、シャムのアユタヤ(タイ)に日本人町ができた。中でもフエの南にあるホイアンにあった日本人町には数百名の日本人が住んでいたといわれている。わずかだが、400年前の日本人の足跡が残っている。そして、そこがユネスコの世界文化遺産になっている。2、3年前から、「一度は行ってみよう」と思っていた。そして、古都フエもすてがたい。
 ヴェトナムは漢の時代から唐、元、明、清といった中国の侵略に脅かされてきた。現在でも、一歩間違えば、中国は「ヴェトナムは歴史的に中国の領土」と言いはる。現在も、どうみてもヴェトナム領やフィリピン領、マレーシア領にしか見えない南沙諸島を「俺のものだ」と言いはっている。19世紀から20世紀前半は狡猾なフランスに植民地統治された。太平洋戦争後はアメリカの傀儡政権が統治していた南ヴェトナム。ヴェトナムは大国と戦いつづけ、一時的に支配されても、自力で駆逐し、独立を果たしてきた。他力本願で侵略からすくわれ、独立させてもらい、戦勝国だと威張りくさって、謝罪しろ、賠償しろ、首相の行動が気に入らないなどと騒いでいる、東アジアの国々とは一枚も二枚も役者が上だ。誇り高く、忍耐強く、勇猛な国民だと思う。
 ヴェトナム戦争のとき、ホイアンには南ヴェトナムを支援していたアメリカ軍の手先だった韓国軍が駐留していた。ヴェトナムで韓国軍がどんな非人道的な残虐行為をしたか、ヴェトナム人は忘れてはいない。でも、抗韓デモもやらないし、韓国旗をもやしたりもしない。それが自力で戦い、大国を駆逐してきたヴェトナム人の誇りなのだろう。虎の威をかりなければ何もできない人々とは違う、という個人的な意見は別として、韓国軍がホイアンを守っていたから、ホイアンの街並みは残ったという事実には感謝する。
 
<本稿は日馬プレス第298号(2005年5月16日)に掲載されたものです。>
  >> 第2部 フエの世界文化遺産を観る
>> 第3部 日本人町の名残りをとどめるホイアン
 
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