<番外編>

食 風 ベトナム編
第2部 フエの世界文化遺産を観る
 ヴェトナムにはユネスコの世界遺産に指定された遺産が五つある。自然遺産はハノイの東にあるハロン湾(Ha Long Bay)とポン・ナケ・バン国立公園(Phong Nha-Ke Bang National Park)の二つ。文化遺産はフエ(Complex of Hue Monument)、ホイアン(Hoi An Ancient Town)、ミー・ソン保護地区(My Son Sanctuary)の三つだ。
 今回訪れるフエはグェン(阮)王朝時代の宮殿、寺院、廟(国王の墓)などの遺跡が指定され、復元と保護とともに海外からの観光客に公開している。アイアンはグェン王朝以前のクァンナム(広南)朝時代、世界的には大航海時代に日本人、中国人、ポルトガル人、オランダ人がこの町を歩いていた。
 
▲世界文化遺産の町フエ▼
 クアラルンプール国際空港からヴェトナム航空機でホーチミン空港へ。ホーチミン空港国内線でフエ行きのプロペラ機に乗り換える。クアラルンプールからホーチミンが1時間50分、空港での待ち時間2時間30分、ホーチミンからフエまでも1時間50分。一人旅にはちょっと退屈だった。
 「おいおい」と思ったのは、KLIAで搭乗口でチケットもぎのお姉さんに「ビザをもってないの?」と訊かれたことだ。そばにいた責任者風のもうちょっと年のいったお姉さんが「日本人はビザはいらないの」と教えてくれた。ほっと一息ついた。そして、ぞろぞろと機内にはいったら、わたしが座るはずの席に女性が座っている。「ここはわたしの席ですよ」と半券を見せたら、「ごめんなさい」も言わずに、不機嫌な顔をしてうしろのほうに移動していった。その直後、ばたばたとやってきた若者たちが、いっせいに前方の座席を占領した。中に、ビジネスクラスの席に座ろうとして注意されていたのもいた。しばらくして入ってきた乗客がスチュワーデスに半券を見せて苦情を言っている。どうやら、この若者たちもさっきのお姉さんも、半券にある座席番号を無視して、好き勝手に座ってしまったらしい。どうしてだろう。フリー・シートになれてるというのでもないらしい。
 飛び立ったあと、さっきのお姉さんの仲間の子供が通路で遊びはじめた。母親が席に戻そうとすると、子供は泣きわめく。父親らしい若者が子供と一緒に通路で遊びはじめた。母親は安心したのか知らん顔だ。気圧も酸素分圧も湿度も異常な状態の狭い機内は、子供にとってはつらい。子供によっては拷問とおなじだ。駐在のための家族での移動のようなやむを得ない搭乗はしかたないが、親が遊びたいからという理由で航空機旅行をするのは考えものだと思っている。もっとも、他人の乳児、子供が騒いで安眠を妨害されるのが嫌だからというのが最大の理由だ。
 国内線でも「おいおい」があった。数年前にラオスでも経験したが、プロペラ機だから安心と思っているのか、機内で携帯電話で話している人もいる。これはたのしい。というか、「こんなにも多くの人が携帯電話をもっている」という驚きと、「プロペラ機は安全」ということの再確認ができる。
 フエはグェン・フォック・アイン(阮福瑛。のちの嘉隆帝)によって1802年、グェン(阮)王朝の都となった。以来、1945年まで王都として栄えた。町の真中をフォン河が流れ、河に沿っていくつもの遺跡がある。ホテルのボートに乗って河を上る。川面にはいく艘ものボートが停止して何やら作業をしている。よく見ると、川底の砂を網ですくい上げるために、2、3人の男女が滑車を回しているのだ。一人の男がすくい上げた網から砂をスコップで船に移している。その脇を砂を積んだ船が通りすぎていく。建築工事現場でつかうのだろうか。町をすぎ、川岸には鄙びた光景が流れていく。
 最初についたのは、フエの中心から5キロにある、ティエン・ム・パゴダ(Thien Mu Pagoda)。パゴダは仏舎利塔のことで、このパゴダはフエでもっとも美しく、もっとも古い。1602年に建てられたこのパゴダには天からつかわされた妖精、ティエン・ムにまつわる伝説がある。ティエン・ムはのちのグェン王の先祖に「あなたの子孫を200年後に王にしたいのなら、この地にパゴダを建立しなさい」と命じたという。
 現在の塔は1844年にティェウ・トゥリ王によって建てられた。最上階の七階には黄金の仏陀が安置されていたが、1943年に盗まれたという。「日本軍がやったのか?」と訊いたら、「その前からいた白人だろう」と言っていた。アンコール・ワットの遺跡盗掘も小説家アンドレ・マルローをはじめとする、フランス人やイギリス人が先駆けだったから、納得してほっとした。
 フォン河の川岸に、1808年にわずか8ヶ月で建てられたというホン・チェン寺院(Hon Chen Temple)を見て、ミンマン帝廟(Minh Mang Tomb)でボートを下りた。1820年に嘉隆帝の次男のグェン・プック・ダムが二代皇帝となりミンマン帝(明命帝)と称した。ミンマン帝は1841年、52歳で亡くなるまで清の国家形態、諸制度を模倣したことで知られる。廟の建設は40年にはじまり4ヶ月あまりで完成したが、ミンマン帝は完成を待たず病で死去した。フエから15キロはなれた広さ21haのこの廟は、人体を模しているだけでなく、脚の部分はサイゴン、腰がフエ、胸部はハノイ、左右に池を配して海というようにヴェトナム全体をあらわしている。ミンマン帝の寝所には100人の女性がおり、142人の子供をつくったといわれている。頭部に眠る帝の魂を守るかのようにナイチンゲールという名の鳥が鳴いていた。
 ここからは車で移動になる。カイ・ディン廟(Khai Dinh Tomb)は1916年から25年まで在位した第12代カイ・ディン帝の廟だ。この廟の建設は1920年にはじまり少なくとも11年はかかっている。ここを訪れた人はその建築素材や装飾の90%がヨーロッパやアジアの洗練されたものであることを知り、ひじょうに驚くという。実際には1887年にフランス領インドシナが成立した以後、国というよりは保護国、ようするに植民地統治された形式的な王国に落ちぶれていた。10代、11代と国王は幼少時に即位し、成人するとフランス政府の圧力で廃位される憂き目にあっていた。12代皇帝は、女御300人、400人があたりまえ、子供も数十人があたりまえだった歴代皇帝と異なり男色だったという。
 
▲グェン王朝の栄華を残す宮殿▼
 フエの町に戻り、フォン河をわたると、古色蒼然としたグェン王朝の皇帝の居城だったシタドゥル(Citadel)が見える。宮殿を中心とした城郭都市は前面を河に、三方を掘割で囲まれたほぼ正方形だ。正面の巨大な国旗掲揚塔にヴェトナム国旗がひるがえっている。宮廷は国旗掲揚塔に面した南門(Ngo Mon)の建物の階上からは、門前にひれ伏す兵士や国民を国王と王族、高官らが謁見する権力の象徴でもあった。石を組んだ門の部分は高さ5.57m、幅27m。上部は王族や高官のための、両翼のある二層の木造宮殿となっている。
 この門の内側は皇帝と高官の執務室や、大勢の女御や子供たち、従者などが生活する居住区だったようだ。タイ・ホア殿(Thai Hoa Palace)の前庭に(日本の朝廷と同じく正一位、従一位からはじまる階位もあって)階位による礼服に身をつつんだ官僚たちが偉い順に整列し、平伏していたのだろう。
 
▲おしゃれなレストランがいっぱい▼
 古都フエには多くの外国人観光客が訪れる。とくに旧宗主国フランスの人々が多い。そのために、ホテルやレストランは充実している。フエでは最高級は四星ホテルで、料金はクアラルンプール並だろう。もちろん、安ホテルやゲストハウスもある。食事はいい。フランス料理やイタリア料理、地元フエ料理もある。こぎれいな屋外レストランでビールを飲みながら食事もいい。ビールなどアルコール類はマレーシアよりはるかに安いので思いきり呑むことができてうれしい。ただし、日本レストランは見かけなかった。一軒だけ日本の花の名前のカフェがあったが、いかにも雰囲気が悪そうだったのでやめておいたほうがいいだろう。センチュリー・リバーサイド・ホテルの向かい側の路地に、『うどん、ラーメン』という日本語の看板が出ている店がある。お土産屋さん兼ラーメン屋ってところだが、味はまあまあ、経営者の姉妹の感じがよかった。
 フエはハノイから654キロ、ホーチミンから1,080キロと、どちらからも国内線に乗り継いで2時間前後かかる。日本人観光客がそれほど多くないのはそのせいかも知れない。
 
<本稿は日馬プレス第299号(2005年6月1日)に掲載されたものです。>
  >> 第1部 大嫌いだったヴェトナムなのに
>> 第3部 日本人町の名残りをとどめるホイアン
 
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