<番外編>

食 風 ベトナム編
第3部 日本人町の名残りをとどめるホイアン
▲ヴェトナムの小京都『ホイアン』▼
 ホイアンはフエから南に150キロ、直線で90キロで、車で3時間あまりかかる。途中で通過するダナンはヴェトナム戦争時にはアメリカ軍最大の基地となっていた。戦争後は旧ソ連の太平洋艦隊の寄港地だった。まさに東西冷戦期の象徴的軍港だった。
 ダナンの手前にハイバン峠という南シナ海を見下ろす景勝地がある。上りも下りも延々とつづくスネークロードだ。大型ローリーがあえぐようにのろのろと走っている。大型ローリーを乗用車やバスがつぎつぎに追い抜いていく。危ないとは思うけど、追い越していかなければ、峠越えに何時間かかることか。ただ、朝、6時前に起きたというのに、眠気がすっかり覚めてしまった。ハイバン峠には、アメリカ軍の要塞があった。その名残がある。あと、1、2ヵ月後には快適な山岳ハイウェイが完成して、フエ―ダナンは大幅に時間が短縮されるという。次回に、「乞う。ご期待」だ。
 
▲ダナン郊外にはチャンパ王国の遺跡もいっぱい▼
 ダナン周辺には2世紀末から17世紀にかけて栄えたチャンパ王国の遺跡が無数にある。
 チャンパ王国は中国人の統治に反対して建国され、ヴェトナム中部をゆるやかに統治した。そして、次第にインド文化をとりいれた社会を構築した。
 世界文化遺産に指定されているチャンパ遺跡には、カンボジアのアンコール文化より早く、7世紀にはインドのグプタ様式や前アンコール様式に近い石造建築が残されている。ミー・ソン史跡群はダナンの南西70キロ、ホイアンから40キロにある。チャンパ王国の最初の都があったトゥラ・キェゥ宮殿から20キロはなれている。史跡群は標高350mのチュア山(神の山)などの低い山や丘に囲まれた谷あいにある。この史跡群は8世紀頃から13世紀にかけて造られた71の遺跡と碑銘からなる。
 今回は、日程の関係というより調査不足で、ミー・ソン史跡群は割愛することにした。実を言うと、ミー・ソン史跡群のことは失念していたのだ。
 
▲「大理石の山は霊験あらたか」だと信じよう▼
 ダナンをすぎ7キロほどでNgu Hanh Son(五行山・マーブル・マウンティン)がある。大理石の山の急な階段を上ると山全体にいくつもの寺院や洞窟寺院がある。何となく、霊験あらたかに感じて、お賽銭をヴェトナム・ドンで払っていった。「幸運が訪れますように」、「たのしい老後を送れますように」と祈った。もちろん、日本にいる我が家の山ノ神にも、わたしの犯した罪の数々をお許しくださいと願うことも忘れなかった。ここには17世紀にこの地を訪れた日本人商人『日本営七郎兵衛(角屋七郎兵衛)』などが寄進したと石碑に書かれているという。(残念ながら、あとになってその存在を知ったので、見てはいない。)
 五行山の門前町は大理石を彫って観音様や獅子などを制作し、販売している。国外からの旅行者には重すぎる土産ではないか。
 
▲ホイアンの街並みにはシクロが似合う▼
 ホイアンの町は、日本の小京都といった雰囲気の街だった。街並みを保存している街の中心部には、車は乗り入れ禁止。歩くか、シクロ(自転車タクシー)を利用するかのどちらかだ。どっちにしても、せまい街だからたいしたことはない。ひとりで歩いてまわっても2時間ちょっとというところだ。もちろん、この街の魅力を心ゆくまで堪能したいというなら、数日はかかるだろう。
 レ・ロイ(Le Loi)通りとトラン・フン・ダオ(Tran Hung Dao)通りの交差点で車から降りて、ホイアンをどう探索するかを考える。と言っても歩いていこうか、シクロでいこうかだけだが。考え抜いて、シクロに乗ってまわった。4月後半のヴェトナムはとにかく暑い。汗びっしょりになり、Tシャツを乾かすと、汗の成分である塩分が白く浮きあがってくる。だからという気持ちもあるが、ホイアンにはシクロがよく似合う。自動車も走ってないから怖くないし、60,000ドン前後、約4ドル程度で2時間弱というのもいい。ホイアンの町を歩くには入場券がいる。定価75,000ドン。1米ドルがおよそ16,500ドンだから4.5ドル強、つまり、470円程度。これで、寺院や家屋、博物館、手工芸を実演販売しているハンドクラフト・センターなど五ヶ所の見学ができる。フエもホイアンも観光スポットのどこに行っても入場料として60,000ドンとか70,000ドンとかとられる。それを考えれば、シクロに乗って、2時間の観光ツアーで1,000円たらず。文句をいったら笑われる。
 観光客の大半はフランス人のようだ。なかに日本人の老夫婦や三十前後の女性の二人連れがまじっている。フエでは自分ではバックパッカ-のつもりらしい日本人青年を数人見かけた。寺院の前の入場券売り場の前で1時間以上も座り込んでいた日本人青年もいた。とうぜん、わたしは関わりあいをさけて、中国のカンフーの達人のふりをして知らん顔をした。わたしには「インドシナをうろうろしているバックパッカーは麻薬や買春にはまっている奴が多い」という先入観がある。バックパッカーもどきの日本人男性(三十代、四十代もいる)の中には悪いことばかりまねをする輩がいるので要注意だと思いこんでいる。
 レ・ロイ通りからトゥーボン川の川筋にでた。四百年前、この川にオランダやポルトガル、アラブ諸国、中国などにまじって日本の御朱印船もやってきて、帆を下ろしていたのだろう。ホイアンは国際交易都市として隆盛をきわめた。茶屋新六や角屋七郎兵衛、この地で果てた谷弥次郎兵衛(町から少し離れた水田の中に墓が残されている)や藩次郎(墓は近所の農家の庭にある)などの日本人商人や、ちょん髷を結い腰には大小の刀を差した武士(浪人)たちが歩いていた。
 文献として残されたホイアンの日本人町についての記述は三浦按針(ウィリアム・アダムス)が1617年に書いたもので、当時、日本人町には日本人が数百人住んでいたという。名古屋・情妙寺には茶屋新六が朱印船でホイアンを訪れたときの絵図『茶屋新六交趾国貿易渡海図』が残されている。日本人町は現在も残されている日本橋の近くに、長さ三丁、二階建て三階建ての木造家屋が軒を連ねていた。17世紀中頃には、松本寺(どこにあったか知ることはできませんでした)の東側に日本人町、西側に中国人町があった。
 1635年、徳川幕府の鎖国令によって、日本人町は徐々に衰退し、1695年ごろには日本人の居宅は四、五軒を残すのみで、あとは中国人が住んでいたという。その後も長崎で交易が許されたオランダ船や中国船による九州諸藩との密貿易で日本の特産品はホイアンを経由してヨーロッパへと渡っていった。発掘によって17世紀後半に肥前磁器(伊万里焼)の皿などが出土している。
 1719年に、クァンナム(広南)朝の阮福凋(グェン・プック・チュウ)がホイアンに行幸し、日本橋を来遠橋(ライ・ヴィェン・キョウ)と命名した。18世紀中頃には中国人町には6,000人が住んでいたという。ホイアンは1771年から1802年の西山党(タイソン)の乱によって市街は破壊された。1802年にグェン(阮)王朝が成立し、ホイアンは復興された。現在のホイアンの街並みはこの頃から形成された。
 1885年、仏領インドシナが成立し、河川港であるホイアンは廃れ、大型船舶が停泊できるフエに交易港は移された。ホイアンの町は発展から取り残された。そのおかげで、街並みは往時のまま残された。
 
▲日本橋に、なんで葵のご紋の堤燈があるの?▼
 日本橋は屋根がついていた。そして、上流側にはお寺までついていた。葵のご紋のついた堤燈がぶら下がっていた。橋脚は石積み、橋自体は木製だ。日本橋と言われれば、「うーん。日本橋だよな」と納得するしかないが、日本人町の入り口にあったので「日本橋」と呼ばれたというのが正解なのだろう。「つわものどもが夢の跡」といった感じがしないでもない。隣国カンボジアの首都プノンペンにある「日本橋」は、日本がODAで造った橋だから「日本橋」と呼ばれている。どちらも日本人の足跡だから悪い気はしない。橋の内部は古色蒼然とした雰囲気がして、なぜか懐かしい。
 日本橋の通りを東(河口方向)に行くトラン・プゥー通り(Tran Phu Street)は18世紀後半から建てられた平屋造りが多い。代表的な家屋は『77番地』で前側は店舗用、中庭があり、その後ろが住居となっている。トラン・プゥー通り『80番地』は二階建ての代表的家屋。二階は倉庫兼水害時の避難場所としてつかっていた。現在は「貿易と陶磁器博物館」になっている。間仕切りになっている黒光りした調和の取れた格子が味わい深い。
 グエン・タイ・ホック通り(Nguyen Thai Hoc Street)の『101番地』の二階建て住宅も繊細な彫刻で作られた格子や欄間(らんま)がすばらしい。家人が欄間を指さして「日本的だろう」と言う。そういわれてみれば、見えなくもない。前家には応接セット、中庭には井戸がある。
 ヴェトナム政府は1985年3月にホイアンの史跡地区を国の文化財に指定し、調査・保存をはじめた。1991年にはフランス、オーストラリア、旧ソ連、ポーランドなども参加して国際シンポジウムを開催し、街並み保存が検討された。ヴェトナムに協力して日本など多くの国々によって、考古学的調査からはじまり、さまざまな調査や修復に向けた研究がなされた。1993年から、こうした家屋の修復がはじめられた。住民の要望によって雨漏り防止のために「屋根の吹き替え」からスタートした。『トラン・プゥー通り80番地』の修復は日本が最初に手がけた建築物。
 街並みを構成する建築物は450軒あり、すべての家屋に本格的修復をほどこすには限界があるが、行政とともに市民が一体となって取りくんでいる。建築物の増改築は史跡管理事務所が指導し、すぐれた修復工事には市から表彰される。
 
▲ヴェトナムで感じた怒り▼
 ヴェトナム戦争当時、チュライ、ホイアン、ダナンには韓国軍海兵第二旅団、通称「青龍部隊」が駐留していた。アメリカ軍の手先として共産主義勢力のベトコン(民族解放戦線)と戦った韓国軍の名称は「白馬部隊」、「猛虎部隊」といかにも朝鮮族の好きな名称をつかっていた。(張子の虎部隊とか、虎の威を借る狐部隊というのなら分かるが)
 1965年10月に「青龍部隊」はやってきた。公式集計では韓国軍はヴェトナム全土の戦闘で41,400人の北ヴェトナム軍兵士やベトコンを殺害した。そして、きわめて控えめな数字で5,000人以上の民間人を集団虐殺した。ベトコンが潜んでいるという村の入り口で待ち伏せ、まず、水牛を引いた村人や女、子供を殺害し、村を徹底的に攻撃した。女性は陵辱され、金品は略奪された。ベトコンであろうとなかろうと、老若男女区別なく村人を虐殺した。幼児を抱いた女性はそのままの姿勢で幼児とともに殺された。村の住民全員が殺されてしまえば、人数を数えようがない。実際には1万人以上殺戮しただろうと言われている。
 韓国軍の狡猾さは、攻撃、虐殺のあと、橋や道路、学校を再建し、医療活動をし、住民にテコンドーを教え、自分たちはヴェトナム人のため、ヴェトナムを再建するために戦っているという宣撫活動を行ったことだ。そして、韓国軍の残虐行為は正当化された。
 ヴェトナムの人々は多くを語らない。政府も、憎しみを忘れて、アメリカとの関係をより親密にしようとしている。韓国への憎悪にもふれない。民族の誇りがあり、いま、この国は、憎しみを爆発させることより、未来に向かって、敵だった国々とも仲よくしていくことのほうが幾十倍もメリットがあると考えている。アメリカという「虎」の威を借りて暴虐のかぎりをつくした韓国の人々には、理解できないだろうが。
 わたしは韓国政府が自らの政治目的のために、国民の間に反日世論を炊きつけるたびに、中国を支配した元に支配された高麗(朝鮮)の兵士が、1274年の文永の役、1281年の弘安の役と二度にわたる元寇の際に日本海にある壱岐、対馬の住民に行った虐殺、略奪、婦女子への暴行、元という猛虎の尻馬にのった高麗、朝鮮兵だちの残虐行為を、なぜ、都合よく忘れるのか理解に苦しんだ。元寇を、なぜか韓国の歴史教科書では「日本征伐」と書かれているという。それが正しい歴史だというらしい。そして、太平洋戦争時には、日本軍の手先となって東南アジアで、日本兵とともに虐殺や婦女子への暴行をした。ヴェトナム戦争でも、アメリカという超大国の尻馬にのってヴェトナムで傍若無人の残虐行為をした。
 高麗軍として、朝鮮軍として、韓国軍として外国に攻め入ったのではないのだ。自分が攻めたのではなく、強大な力をもつ「虎」の威を借りてしてきたことを、「恥」だと思わないのか。日本に謝罪を求める前にしなければいけないことはないのか。日本に「正しく歴史を見つめろ」という前に、歴史を正しく見つめなければいけないのはだれか。朝鮮人従軍慰安婦を実際に調達したのはだれか、日本軍に組せられていた朝鮮兵は朝鮮人慰安婦を買わなかったのか。
 
◆ 取材協力 ◆
エクアトリアル・ホーチミン
(シャー・アラムのコンコルド・ホテルのシェフをしていた森氏が、エクアトリアル・ホーチミンの日本レストラン『勘八』で元気で働いていました。)
 
 
<本稿は日馬プレス第300号(2005年6月16日)に掲載されたものです。>
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