古都マラッカへは何十回行ったろう。14年前はじめていったときは、まだ、マラッカ川河口は素朴な感じがした。数年前には、セント・ポール寺院の丘からマラッカ海峡を望むと、埋め立てられた土地の上に無数の建物が並んでいた。遠く16世紀のフランシスコ・ザビエルの時代、近くは19世紀末の「からゆきさん」の時代の面影がすっかり薄れてしまった。
それでも、マラッカは歴史的に日本との関わりがふかい。
15世紀のはじめ、当時は日本ではなく、琉球の交易商人たちがマラッカの街を闊歩していた。16世紀中ごろ、フランシスコ・ザビエルとマラッカで出会った旧薩摩藩士がいた。17世紀、御朱印船がマラッカに交易のためにやってきた。時代はとび、日露戦争のとき、貧困から売られた「からゆきさん」たちが、日本海海戦に向けてマラッカ海峡の沖合いを航行するバルチック艦隊の威容に、涙を流して日本の勝利を祈った。
マラッカには日本との様々な歴史がある。まず、琉球交易商人たちの話をしよう。 |
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| ■■ 第一回 琉球の交易商人たち |
スマトラ島の貴族パラメスワラがマラッカにたどり着いたのは15世紀はじめだった。
1405(永楽3)年、マラッカ国は中国・明の永楽帝に使節を送り、永楽帝はパラメスワラをマラッカ国王に封じ、印章と勅語を贈った。二代国王イスカンダールは自ら明に赴き、朝貢している。帰途、明の美しい高貴な女性を同伴し、のちに結婚した。華人墓地のあるブキ・チナ(三保山)の麓の三宝井という井戸のあたりに明からきた姫とその従者たちの存在を示すものが残されている。マラッカ王国は明との関係によって、近隣の強国であるシャムやジャワとの関係を安定させた。
マラッカ王国にはマラッカ人という原住民はなく、ジャワ、スマトラからの移民が多かった。建国時の人口は約2千人。ポルトガルに滅ぼされた1511年には約4万人の都市に成長した。
マラッカにおける交易は、外国人がほとんどだった。王国は港の維持管理と、強固な艦隊による航路の安全保護をした。王国の収入は交易による収入は少なく、大部分は輸出入の税金だった。
この頃、マラッカに交易のためにやってきた『ゴーレス』と呼ばれる民族がいた。『ゴーレス』は、マラッカ王国を攻略したポルトガル海軍軍人アルブケルクが本国に送った文書の中に登場した謎の民族だった。「毎年のように生糸、錦、小麦、陶磁器、銅、ミョウバン、砂金、金貨などをもってきた。」とある。戦前、謎の民族『ゴーレス』をめぐって日本では学者たちが大論争をした。秋山謙蔵、岡本良知らは琉球人説、藤田豊八、川島元次郎らは日本人説だった。昭和8年に琉球王国の外交文書「歴代宝案」の本格的分析によって、琉球と東南アジアとの交易の状況が明らかになり、『ゴーレス』とは琉球のことだということが明らかになった。そして、戦後、ポルトガルの資料のトメ・ピレスの「東方諸国記」が翻訳され、『ゴーレス』は琉球ということが確定した。 |
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| ■■■ 信義を重んじ高潔な琉球人
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トメ・ピレスの「東方諸国記」から、琉球に関する記述を抜粋した。
レケオ(琉球人)はゴーレスと呼ばれる。彼等はこれらの名前のどちらかで知られているが、レキオ(レケオと同じ)人というのが主な名前である。国王のすべての人民は異教徒である。国王はシナ(中国・明)の国王の臣下で彼に朝貢している。かの島は大きく、人口が多い。彼等は独特の小船を持っている。また、ジュンコ(ジャンク型の船)は、3,4隻持っているが、彼等は絶えずそれをシナから買い入れている。
彼等はそれ以外の船を持っていない。彼等はシナと一緒に取引きをし、また、しばしば自分自身でシナのフォケン(福建)の港で取引きをする。そこはシナ本土にあり、カントン(広東)に近く、そこから一昼夜の航海のところにある。マラヨ(マレー)人はマラカ(マラッカ)の人々に対し、ポルトガル人とレキオ(琉球人)の間には何の相違もないが、ポルトガル人は婦人を買い、レキオ人はそれをしないだけであると語っている。レキオじんは彼らの土地には小麦と米と独特の酒と肉を持っているだけである。魚は大変豊富である。〈中略〉シナ人やその他すべての国民は、レキオ人について語る。彼等は色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており気位が高い。彼等はシナに渡航してマラッカからシナに商品を持ち帰る。彼等はジャポン(日本)に赴く。それは海路、7、8日の航程に在る黄金と銅とを商品に交換し、買い入れる。レキオ人は自分の商品を自由に掛け売りする。そして、代金を受け取る際にもし人々が彼等を欺いたら、彼等は剣手にして代金を取り立てる。が象徴的だった。日本人は凶暴で、貪欲、卑劣な人種と見られていた。
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| ■■■ 鎖国中の明との朝貢貿易で交易の中継基地に |
1368年、強大なモンゴル人帝国だった「元」に替わって中国を統一したのは漢民族の朱元璋で、明を興し、太祖洪武帝を名乗った。明王朝は朱子学を重んじ皇帝中心の強固な中央集権制度をとりった。土地や税金の台帳制度を作り、内政の充実に力を注いだので、商業が著しく発展した。一方で外交的には海禁(鎖国政策)をとり、外国との交易は朝貢国の琉球による、中継貿易によっていた。外交的に弱い明王朝は、外国からの度々の侵入に次第に疲弊し、ついには滅んだ。
明の太祖洪武帝は1369年、安南、チャンバ、ジャワ、高麗、日本に朝貢をもとめた。日本へは、特に、中国大陸沿岸を跳梁跋扈する倭寇の鎮圧をもとめたが、これを無礼として、日本は太祖の申し入れを拒んだ。のちに足利義満の時代になって、室町幕府は朝貢船を送り、日明貿易の道を開いた。太祖が琉球に詔文を送ったのは1372年。琉球の山北、中山、山南の三国は朝貢国となった。
明は、朝貢国に新たな国王が決定されると、冊封使を送り、国王の地位を認定した。
マラッカ王国も琉球王朝も朝貢使を明に送ったことで、外形的には属国あつかいということになり、近隣国への安全保障となった。しかし、現実には、明は朝貢国の内政に干渉せず、独立国としての地位は認められていた。現在、アメリカの軍事力の傘の下にいる日本や韓国のようなものと考えていいだろう。マラッカも琉球も、形式的な従属関係によって「名を捨てて、実をとる」外交政策をとった。政権の安定を図るとともに、朝貢貿易によって莫大な利益を受けた。鎖国によって外国との直接的な交易を避けた明にかわって、琉球はいわゆる仲介貿易をして、利益を得た。
琉球からの輸出品は、自国産の芭蕉布、硫黄のほか、日本産の刀剣、銅、硫黄、扇、屏風、漆器など、明からの輸出品は絹織物、磁器など。南方諸国からは蘇木(紅の染料)、胡椒、更紗、鬱金、酒類、砂糖、錫などを輸入した。酒は南蛮酒と呼ばれるもので、同時に醸造法と南蛮甕が輸入され、やがて「泡盛」の製造となったといわれている。琉球には三つの王国があり、山南には糸満港、山北には親泊港、中山には泊港があった。1416年に山北が滅亡し、中山王の尚巴志が山南を滅ぼして、沖縄全土を統一した。統一後、琉球王国の首都は首里に、港を那覇に気付いたなった。 国内に特産物をもたない琉球王朝にとって、交易は唯一最大の収入源だった。
沖縄の人々がその宗教的感情を中心とする思いを、韻律的に表現した『おもろ』という伝承文がある。人々は泡盛の飲み交わし、『おもろ』にあわせて、舞い、踊った。その一節に、琉球の中山王尚巴志が交易港を那覇に築いたことを歌ったものがある。
しよりおわる、てだこが(首里におわす王が)
うきしまは、げらへて(浮島に築港して)
たう、なばん、よりやう、なは、とまり(唐、南蛮の船が寄り合う那覇の港となした)
又ぐすく、おわる、てだこが (また、首里城におわす王が)
(十三の八) |
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| ■■■ 那覇に港を築いたということは、尚巴志王の権力の強さ、王国の繁栄の証でもあった。 |
琉球の歴史書『中山世譜』には、武寧王の治世の1404年(応永11年)にシャム(タイ)の船が琉球を訪れたという記録がある。また、『琉球国旧記』には尚巴志の先代王の尚思紹がシャム、朝鮮、スマトラ、マラッカ、ジャワなどと交易したとの記載がある。小葉田淳氏の研究論文「琉球・満刺加(マラッカ)間の通商関係に就いて」には、琉球と南方諸国との貿易状況が下のように記されている。
| 相手国 |
始 期 |
終 期 |
回 数 |
隻 数 |
| シャム |
1425(応永32) |
1570(元亀元) |
45 |
58 |
| パレンバン |
1428(正長元) |
1440(永享12) |
4 |
4 |
| ジャワ |
1430(永享2) |
1442(嘉吉2) |
5 |
6 |
| マラッカ |
1463(寛正4) |
1511(永正8) |
18 |
20 |
| スマトラ |
1463(寛正4) |
1468(応仁2) |
3 |
3 |
| パタニ |
1490(延徳2) |
1543 (天文12) |
10 |
10 |
| 安南 |
1509(永正6) |
1509 (永正6) |
1 |
1 |
| スンダ |
1513(永正13) |
1518 (永正15) |
2 |
2 |
この時期は、室町時代後期で、16世紀後半から17世紀にかけて東南アジア各地に日本人町が登場したが、それより100年前のことである
中国沿岸を荒らしまわっていた倭寇と違って、琉球人は商人としての信用を得ていた。もっとも、悪名高い日本の海賊であるとされた倭寇がすべて日本人だったというのではないようだ。日本人のふりをした中国人のほうが多かったといわれている。倭寇だけでなく、台風などの自然的暴威も加わり、リスクの大きなビジネスでもあった。
琉球の中継貿易は15世紀〜16世紀序盤までは盛んに行われた。しかし、1511年にポルトガルがマラッカを占領したころ、明は鎖国をやめ自身で南方諸国と交易をはじめた。日本、イスパニア(スペイン)も進出、16世紀後半には、琉球が交易してきた南方諸国、中国、日本の市場はことごとく他国に奪われてしまった。特別な産業をもたない島国には、仲介貿易こそ唯一の繁栄の道だった。
16世紀後半、薩摩が威圧的になり、1609年(慶長14年)薩摩の島津藩は琉球に侵略し、尚寧は捕虜となった。1611年、薩摩の島津家久は尚寧に奄美大島以下五島の割譲を命じた。薩摩は琉球の独立国としての地位を残した。明との貿易権である「冊封使」をもつ琉球を利用するためだった。
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